秀吉と秀忠が仙石秀久に求めた異なる「役割」
■秀吉から期待された「方面司令官」としての「役割」 本能寺の変の後、織田家中で同僚格であった諸将を抑えて実権を掌握した秀吉にとって、古参の家臣の存在は非常に重要でした。秀久は若くして秀吉の馬廻り衆となり寵愛を受けてきた上、各戦において武功も挙げていました。そのため、異例の出世を遂げていきます。 紀州征伐などの功績により淡路一国を、次の四国征伐では讃岐一国を得て、阿波一国を得た蜂須賀家とともに四国を任されている事から、秀久への信頼の高さが伺えます。 そして、九州征伐において、軍監として長宗我部(ちょうそかべ)家や十河(そごう)家の四国衆を率いて、窮地の大友家を支援する先発隊を任されます。秀久は秀吉が信頼を寄せる古参家臣として、四国衆を束ねる司令官の「役割」を期待されていたようです。 しかし、豊臣本軍の九州上陸が遅れる中、府内城に侵攻する島津軍を防ぐために秀久は討って出て、戸次川にて大敗を喫してしまいます。秀吉からの過度な期待に対して、どこかで焦りがあったのかもしれません。その罪を問われて改易され、高野山(こうやさん)へ追放されてしまいます。 ■秀忠から期待された「補佐役」としての「役割」 その後、秀久は小田原征伐で家康の取り成しにより陣借りをし、信濃小諸5万石の大名として復帰を果たします。この時の活躍として、数々の逸話が残されています。秀吉から報奨として金団扇を拝領し、それは江戸時代を通じて現存しています。 関ヶ原の戦いにおいては秀忠軍に加わり、真田家との上田合戦などで補佐を努めて、秀忠の信頼を得ることになります。戦後の論功行賞では本領安堵に留まったものの、秀忠が征夷大将軍を継承すると、準譜代大名として特別な待遇を得るようになります。 秀久は黒田家や細川家のように、大禄を得た豊臣恩顧の大名たちとは違う形で、徳川幕府に取り込まれていきました。豊臣恩顧の大名たちを統制するという、重要で政治的な「役割」を期待されていたようです。これは、武勇や武功への評価の高さもあるようですが、豊臣恩顧の中でも古参の家臣だった事が大きく関係しているのかもしれません。 仙石家は秀久死後も、分家が継承するまでは、譜代席と呼ばれた帝鑑(ていかん)の間に詰める家柄として扱われています。 ■期待の大きさと「役割」の重さに苦しめられる 秀久は武勇に優れ、信頼を寄せる事ができる人物であったのは間違いないようです。秀吉(ひでよし)も軍司令官として重用しており、秀忠も譜代大名並みに厚遇しています。 しかし、秀吉からの期待が重荷となったのか、戸次川の戦いでの大敗という失態へと繋がりました。 現代でも、信頼できる人物という理由で、その資質を超える過度な「役割」を期待して、結果的に大きな失敗を招く事が多々あります。 秀久も九州征伐で軍監となっていなければ、その後の展開も変わり、現在のイメージも違ったものになっていたのかもしれません。但し、天下人が信頼したくなる魅力を有した武将であった事は間違いないようです。
森岡 健司