「ガンで逝った従兄弟、事故死した友のために」元“崖っぷちJリーガー”がシンガポール代表になるまで「板倉や鎌田がA代表に…自分は何してるんだ」
一度は帰化申請を却下されたが……
クラブと5年契約を結んだ段階で、両親にはその意思を伝えた。 「国籍を変えてA代表を狙おうと思う」 シンガポールに移籍した2019年に結婚し、翌年からは現地で生活を共にしてきた妻も「決めたことなら応援する」という温かい言葉をくれた。 FIFAが定めるルールに、5年間その国のリーグでプレーしないと帰化選手として認めないとの記載があったことで、帰化申請はシンガポール6年目を迎える2023年に定めた。 一度は帰化申請が却下されたが、「僕がどんな時もシンガポール代表になることを公言し続けていたので、クラブやシンガポールサッカー協会などの周りの人たちが本気で動いてくれた」と、予定より1年遅くはなったが、今年の3月21日に永住権を取得し、10月25日にはシンガポール国籍を取得することができた。 そして11月14日、ミャンマーとの親善試合でA代表デビューを果たした。 11年前、U-17W杯の時とは異なる色だったが、赤いユニフォームを纏い、国歌が流れた時は全身から震えを感じた。 「国の代表として戦うことの責任感は、これまでのクラブとは全く違う戦いだった。国歌の時に『シンガポールのために戦おう』とより覚悟が固まりました」 この試合で仲村は勝利に貢献すると、マン・オブ・ザ・マッチにも選出された。街に出れば代表選手としての叱咤激励を受けるようになった。形は違えど、夢だったA代表でのプレーを実現させた今は、その先の目標もしっかりと見据えている。 「シンガポールはFIFAランキングが161位。日本からは程遠い存在ですが、W杯出場の可能性が1%でもある限り、諦めたくない。シンガポールサッカーの発展のために全力を尽くします」 現在、仲村は12月8日から開幕するASEANチャンピオンシップに向けて代表活動に励んでいる。 「僕のサッカー人生は浮き沈みが多かったけど、それがあったから気付けたことも多かった。すべての物事は自分のマインド次第ということを学びました。シンガポール代表になって『第二の人生』がスタートしたのではなく、長く続く自分の人生の一部分と思ってやっています。これまでがあったからこそ、今の自分があることを絶対に忘れないで生きていきたい」 サッカーはやっぱり技術1割、メンタル9割――これは日本代表・堂安律が発した言葉だが、仲村はこの言葉に強く共感したという。 賢明に花を咲かせようとする心が、想像もできなかった未来を切り開いた。仲村京雅の数奇な人生から大切なものを教わった。 〈前編から続く〉
(「“ユース教授”のサッカージャーナル」安藤隆人 = 文)
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