自民党の「派閥」はなぜ生まれた? 功罪と栄枯盛衰、そして解消宣言まで
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総裁選や組閣の際に注目を集めてきた自民党の派閥。2024年1月、派閥の政治資金パーティー問題を受けて、岸田文雄首相が岸田派の解散検討を表明すると、麻生派を除く5つの派閥が相次いで解散を決めました。隆盛と退潮を経て「派閥解消」宣言に至った自民党の派閥はどのように誕生し、どんな功罪をもたらしてきたのか。政治学者で東京大学大学院教授の内山融氏に解説してもらいました。 【図解】「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治
結党翌年の総裁選ですでに派閥が存在感
派閥のような存在は、自民党の前身である戦前の保守政党「政友会」と「民政党」にも存在したといわれる。しかし当時は、派閥に属する者は少数で、大多数は中立だった(北岡伸一『自民党』)。 1955(昭和30)年、自由党と日本民主党が合同して「自由民主党」が結成された。なお同じ年に、それまで左派と右派に分かれていた「社会党」も統一されている。これにより、自民党が政権を握り、社会党が野党第一党として自民党に対峙する「55年体制」と呼ばれる体制が誕生した。 この保守合同後、派閥の活動が活発になった。翌1956年の総裁選において岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3氏が争った際には、岸派に対して石橋派と石井派が連合を組んで対抗し、石橋首相が誕生した。この総裁選では派閥が大きな存在感を示し、主要派閥が固まった。当時の主要派閥は、岸(信介)派、河野(一郎)派、石橋派、三木(武夫)・松村(謙三)派(以上は民主党系)、池田(勇人)派、佐藤(栄作)派、大野(伴睦)派、石井派(以上は自由党系)の8つであり、「八個師団」と呼ばれた。 ただし、この頃は所属議員など派閥の範囲がまだ不明確であるなど制度化がなされておらず、派閥はまだ形成期にあったといえる。
中選挙区制で隆盛を極めた派閥政治
派閥が発展した背景として重要なのは、衆議院選挙で当時採用されていた中選挙区制である。中選挙区制では、一つの選挙区で複数の自民党候補が出馬しており、同じ自民党の中で争いが起こっていた(1つの選挙区から複数の当選者を出さなければ自民党は過半数を取れなかった)。こうした党内競争の存在のため、各候補は党本部の支援を当てにすることができず、それぞれの派閥に支援を仰ぐこととなった。これが派閥の大きな存在意義となっていた。 自民党政権の長期化とともに派閥は定着し、1970年代には全盛期を迎える。この時期には田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘、三木武夫といった錚々(そうそ)たる政治家が派閥を率い、角逐を繰り広げた。彼らの姓の一字を取って「三角大福中」の時代と呼ばれる。 この中でも田中派が最大勢力であった。1972(昭和47)年から2年半、首相を務めた田中は、ロッキード事件(米国の航空機メーカーであるロッキード社をめぐる汚職事件)で76年に逮捕され、自民党を離党したが、その後も1980年代に至るまで自民党内に隠然たる影響力を誇った。総裁選出にも田中の意向が欠かせないとされ、「闇将軍」と呼ばれるほどであった。一方で派内の内部抗争も激しく、1987(昭和62)年には竹下登が経世会を結成し、田中派は分裂した。