インタビューしたのは敗れた選手、ヒリヒリする対応と言葉を引き出した―森合 正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』松原 隆一郎による書評
26戦全勝23KO。井上尚弥は恐ろしいボクサーだ。 パンチを躱してから打つのではなく躱しながら打つノニト・ドネアの神業を、楽々と披露する。記者は誰もが「そんな技が凄い」と書きたいところだが、それだと正確な表現にならない。千変万化、戦略やその場の事情で構えすら変えてしまうからだ。どう恐ろしいのか「まだ分からない」のである。 鳥山明の漫画『DRAGON BALL』なら「スカウター」の数字で強さを表示するところ、活字では手段が限られる。そこで著者は一計を案じた。対戦相手と一緒にビデオを見、井上像を言葉にしてもらおうというのだ。 インタビューしたのは敗れた選手、踏み込んではいけない領域がある。著者の細やかな気配りで、10人からヒリヒリする対応と言葉を引き出した。佐野友樹は「みんな、闘うなら今しかない。来年、再来年はもっと化け物になる」と口走り、田口良一には「『井上戦でダウンしていない男』はいい称号だな」と述懐させた。ドネアはまだ井上戦を語りたくないと口をつぐみ、同じくレジェンドのナルバエスは饒舌だ。 戦略が光る傑作である。 [書き手] 松原 隆一郎 1956年兵庫県神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。 東京大学大学院総合文化研究科教授を経て、2018年4月より放送大学教授、東京大学名誉教授。武道家としても知られる。著書に『ケインズとハイエク』『日本経済論』『分断された経済』『経済学の名著30』『消費資本主義のゆくえ』『失われた景観』『武道を生きる』『経済政策―不確実性に取り組む』『森山威男 スイングの核心』など。 [書籍情報]『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』 著者:森合 正範 / 出版社:講談社 / 発売日:2023年10月26日 / ISBN:4065337488 毎日新聞 2024年3月30日掲載
松原 隆一郎
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