「一生こういうことはしない」伝説的な歌手が後悔した黒歴史とは?
戦後の混乱期を一途に、毅然として生きた“ブギの女王”笠置シヅ子。戦前は“スヰングの女王”であった彼女が、いかにして戦後のトップスターの地位に昇りつめたのか?そして現代の芸能界にも通ずる衝撃的な移籍問題の顛末とは?※本稿は、砂古口早苗著『ブギの女王 笠置シヅ子: 心ズキズキワクワクああしんど』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 戦後最初のスター・笠置シヅ子 キャリアスタートは“スヰングの女王” 笠置シヅ子は“見せる歌”を体現した戦後最初のスターだといっていいのだが、厳密にいえば、そんな彼女の登場はすでに戦前にあった。 歌姫・笠置シヅ子の全体的な活動・キャリアを考えると、まずジャズ歌手としてスタートしたことは見逃せない。私を含めて多くの人は戦後の“ブギの女王”以降の笠置シヅ子しか知らないが、その前に“スヰングの女王”だったことを知る人は少ない。言い換えれば、ジャズ・スウィングとブギ、この2つのリズムと女王の称号は別々のものではなく、連なったもの、連続したものと考えたほうがいい。昭和の歴史がいきなり戦後から始まったわけではないのと同じように。ブギの女王という謎を追えば、戦前・戦中の笠置の活躍に導かれていくのは自然なことだ。 1938年4月の帝国劇場でのSGD(松竹楽劇団)旗揚げ公演から1年足らずで、当時洋画で人気のアメリカ女優・マキシン・サリバンやベティー・ハットンのような歌姫がついに日本にも現れたという評判が立ち、笠置のもとに連日、新聞・雑誌記者が押し寄せた。 入団してまだ間もない笠置は『映画朝日』7月号の巻頭グラビアに登場する。キャプションには「颯爽としてOSSKから迎えられた松竹楽劇団のジャズ歌手 笠置シズ子」とある。24歳の笠置の初々しさがとてもまぶしい貴重な写真だ。
他にも特筆すべき雑誌がある。レビューや映画に深い造詣を持つ具眼の士で、戦前戦後を通じ多くの批評を書いた評論家の双葉十三郎は、1939年4月のSGD公演「カレッジ・スヰング」を観てたちまち笠置のファンになり、映画雑誌『スタア』39年6月上旬号で「笠置シヅ子論」を書いた。なんともチャーミングな顔写真つきでほぼ1頁、笠置を“スヰングの女王”と大絶賛したのである。 ● 服部良一の尽力により コロムビア専属歌手に 「凡そショー・ガールとして、またスヰング歌手として、当代笠置シヅ子に及ぶものはないであろう。……全く彼女は素晴らしい」と書く双葉の、笠置への惚れ込みようが伝わってくる。南部圭之助や野口久光も笠置に魅了され、たちまちファンになった。 1939年7月、笠置は服部の尽力で晴れてコロムビア専属歌手になる。服部良一が懇意のコロムビア文芸部の山内義富に、「おもしろい歌手が出るから見にこないか。夜光塗料を塗った衣装でね、いきなりオーケストラから飛び出すんだ」と言って誘い出したのは6月公演「ジャズ・スタア」のときだった。 「どうだ、おもしろいだろう。日本にこれほどジャズの雰囲気をもつ歌い手はあるまい。これからみっちり育ててみたい」