「一生こういうことはしない」伝説的な歌手が後悔した黒歴史とは?
山内にそう語る服部は自信にあふれていた。すぐに服部の厳しいレッスンが始まり、7月公演の「グリーン・シャドウ」で服部は「ラッパと娘」を作曲した。笠置は舞台で黒人の娘に扮し、SGDスイングバンドの楽長でトランペッターの斉藤広義と掛け合いで歌った。 これはアメリカ映画『芸術家とモデル』という映画の中でルイ・アームストロングと掛け合いでマーサ・レイが歌ったシーンを服部が頭に描き、笠置のために作曲したものだった。 これが評判となって双葉十三郎も絶賛し、今日まで「日本ジャズ・ショーの傑作であった」(瀬川昌久著『ジャズで踊って』)といわれている。7月27日にスタジオで吹き込んだこの「ラッパと娘」が、笠置シヅ子のコロムビア専属第1回のレコードとなった。 ● 若い女性としては破格の高月給 しかし多くを大阪の両親へ仕送り 実はこの「ラッパと娘」で、笠置は高音を殺して地声で歌うことを服部に命じられて、ついにのどを潰して病院で診察を受け、医者にしばらく歌うことを禁じられた。「ジャズの発声法は地声が自然なのだ」という服部の持論を実践した結果だったが、笠置は後悔するどころか、その足で舞台に戻って歌った。 自分が歌わないと服部が困るし舞台が成り立たない……、こうして笠置は歌手として第一歩を踏み出したと同時に、のどの痛みを我慢してでも歌いたいというプロ根性とショーマンシップを備えていく。
この時期、SGDから支給される笠置の月給は200円で、当時の若い女性がもらう給料としてはかなり高額だった。だがこの中から150円を大阪の両親に仕送りし、20円を寄宿している山口宅に支払い、残りの30円で衣服その他を賄ったのだから、笠置がいかに親孝行な娘だったかがわかる。 どういう経緯かは不明なのだが、39年12月30日に公開された松竹下加茂映画『弥次喜多 大陸道中』に、笠置は出演した。歌う映画スター第1号と言われた高田浩吉主演映画で、戦前から作られたオペレッタ喜劇映画と思われる。おそらく笠置が歌うシーンも挿入されていると思われるが、この映画の資料がまったくない上に、フィルムが残されているかどうかもわからない。笠置がこの年に服部から贈られた曲は「日本娘のハリウッド見物」「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」の3曲で、そのどれかが映画の中で歌われたと思われる。