「一生こういうことはしない」伝説的な歌手が後悔した黒歴史とは?
● 淡い片思いと経済問題が発端 東宝への移籍騒動の顛末 益田が在籍していた短い間、笠置は益田に気に入られ(笠置は振付けの蒲生重右衛門には嫌われていた)、笠置もまた2歳年上の益田にほのかな恋心を抱いていた。だから笠置は、益田からの東宝への誘いを断れなかったのだろう。後年、笠置は益田への感情は初恋のような淡い片思いだったと述べているが、むろん、笠置の気持ちは益田に伝わっていたと思われる。 益田に移籍を誘われた笠置は、東宝が経営する有楽座の事務所でひそかに樋口正美という人物と会い、月給300円という条件で移籍を承諾して契約書に調印した。松竹からもらう当時の笠置の月給は200円だったから、かなりの高待遇である。そのほとんどを実家に仕送りし、おまけにこの頃、養母のうめが病床にあって治療費が笠置の肩にかかり、経済問題から移籍を承諾したのである。 この年の笠置はSGDでの活躍に加え、レコードデビュー、映画出演などで人気は上昇していて、東宝にとっても魅力的な芸人だった。ところがこれを知った松竹幹部は激怒。笠置は団長の大谷博に呼ばれて叱責され、大谷の葉山の別荘で23日間、夫人の監視の下で監禁同様の身になるのである。
寄宿先の、演出家で笠置の身元引受人だった山口国敏はちょうど中国戦地に出征していて相談できず、笠置が相談する相手は服部良一しかいなかった。服部が「笠置君がやめるのなら僕もやめさせてもらう」と言ったことから、2人の間を誤解されてゴシップの種にもなったが、とりもなおさず服部が笠置のために奔走することになり、松竹と東宝の間で金銭問題が解決して笠置は松竹に留まることで解決した。 ● なぜ服部良一は笠置を 東宝から奪還したのか それにしても、服部はなぜ笠置を松竹に留めることに1人で尽力したのだろう。この頃から映画音楽も手掛けたいと強く希望していた服部自身、東宝を敵に回して松竹のためにあからさまに動くことはしたくなかったはずだが、将来ある笠置のために松竹との関係を懸念したからであり、師匠が弟子のピンチを救うのは当然だったかもしれない。この当時、笠置だけではなく芸人の移籍トラブルが多発していて、芸能界の大問題となっていた(象徴的なものが1937年の“林長二郎、後の長谷川一夫襲撃事件”だ)。