「一生こういうことはしない」伝説的な歌手が後悔した黒歴史とは?
● 「一生こういうことはすまい」 『愛染かつら』高石かつ枝役秘話 1940年に入り、笠置は浅草国際劇場でのSGD2月公演、グランドショー『愛染かつら』に出演することになった。『愛染かつら』は1938年、川口松太郎原作の小説が松竹で映画化されて9月に封切られるやいなや、西條八十作詞、万城目正作曲の主題歌「旅の夜風」とともに日本中大ヒットとなり、1939年にはあちこちの軽演劇団で亜流やパロディー劇が演じられるようになった。SGDでもこれを取り上げ、笠置が高石かつ枝の役を演じたのだが、このときのことを笠置は戦後、雑誌にこう書いている。 「自分の経験でつらかったことは、楽劇団にいたとき、『愛染かつら』を国際劇場でやったのですが、一生こういうことはすまいと思いましたね。どうしても『愛染かつら』の高石かつ枝ではないと、再三、大谷さんにおことわりしたのですが、その当時は『愛染かつら』の嵐でしたから、どうしてもうちでやるといわれました。はじめストーリーが浪曲まじりであったりして、いろいろ先生方が苦心してくださいましたけど、やはり所詮私らのものではありませんでした。じっさい、着物を着て舞台に出て……どうも『愛染かつら』の高石ではないですよ。これには参ったな。いまだに思い出すと、気持ちが悪いですね」(『軽音楽の技法 上巻』より「修業の回想」、婦人画報社、1948年)
笠置シヅ子の高石かつ枝もちょっと見てみたかったという気もするが、二度とこういう経験はすまい、と思ったというのは、断固として自分が何を演じるべきか、笠置はこの時期すでにわかっていたのだ。 1939年春、笠置の東宝への移籍問題が起きる。当時、前年の旗揚げ公演「スヰング・アルバム」に出演して以来、“スヰングの女王”絶賛されていた笠置のこの移籍問題は、新聞の芸能欄の話題に上り、笠置の写真入りで報じられている。 かぎつけた新聞記者に質問された笠置は多くを語らず、「私の口から何も申し上げることが出来ません。私は1人ぽっちで、その上田舎者ですから、皆さんにご迷惑をかけるようなことはしたくないのですけれど…と、憂わしげに語っていた」(『朝日新聞』1939年3月25日)と記事にはある。 笠置を東宝に誘ったのは、すでに前年6月にSGDを去っていたジャズ・ピアニストで華族(注・華族制度は1869年から1947年まで続く)の益田貞信(父の益田太郎が太郎冠者と名乗ったことで、別名・益田次郎冠者ともいわれた)だった。プロデューサーとしての益田の洗練されたモダニズムが、やがて大衆路線に合わせていく松竹との方針と反りが合わなくなるのは時間の問題だった。その才能を東宝系の劇場などで発揮することになった益田は、SGD時代に笠置の才能を見抜いていたと思われる。