乗船予定の船が転覆し母は帰国を断念 どこでお金を…「恥かきっ子」と呼ばれた幼少時代 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<4>
《多忙で不在がちだった父、張尊禎(チャンサンジュン)さんに代わり、張本家は母、朴順分(パクスンブン)さんが1人で4人の子供を育てた…》 【写真】記念写真に納まる張本勲さん、王貞治さん、原辰徳さん、巨人の阿部慎之助監督、ソフトバンクの小久保裕紀監督 (母が)40歳のときの子なんだよ。王(貞治)も40の子だからね。昔は〝恥かきっ子〟と呼ばれたんです。おやじは戦後まもなく韓国に戻った。いろいろ残務整理のためでした。向こうにはおやじの両親もいた。日本には母がいた。また帰ってくると言っていたが、どうしたって1年くらいは過ごしますよね。 そんな折、朝鮮動乱(※昭和25年6月、南北に分断された朝鮮半島での戦争。28年7月に休戦協定)が勃発した。これは当分帰って来られないなと思っていたら、(母が)おやじはその前に亡くなったって言ってました。 母が1人で子供が(上の姉が原爆で亡くなって)3人。どうするんだろう? 何もねぇよ、って子供ながらに思ったね。でも母はどこかでお金を工面してくる。3千円とか、5千円借りて。何とか生活していた。たまたま隣のおばさんが、家の外で商売をやっていた。石炭箱をひっくり返し、白い布をかぶせてテーブル代わりです。キムチとか雑肉などを調達して、大工さんとか土木工事をする人たちに売っていた。密造酒、焼酎、どぶろくもあった。結構お客さんが入っていたね。 その人のお母さんがうちの母に、「あんたもやってみなさいよ、料理が上手なんだから…」って。終戦直後、私が小学校に入る前です。3畳の土間、そこでご飯を炊く。そして6畳、奥に4畳の部屋。その向こうは土手、その先は川ですよ。そんな昔の長屋みたいな家の外でホルモン屋を始めた。 あるとき、家までお客さんが入ってきて、飲んだり食べたりしていた。また、あるお客さんは飲むと必ず浪曲をうなった。私が6、7歳のころかな、それを聞いてすっかり好きになった。二代目広沢虎造ですね。今でも家に『61番』(日本の伝統芸能シリーズ浪曲編第61弾。「忠治と火の車お萬」を収録)まであります。演歌も好きですよ。店で聞いていた影響ですね。 母は片言の日本語で広島駅近くにあった闇市で、肉や材料などを仕入れていた。壁に数字を1、2、3…と書いて「8本売れた」「9本売れた」って喜んでいた。そういう商売をして子供を育ててくれた。