【定年後の歩き方】「SNSで繋がった若者と事業を起こしたい…」63歳男性が500万円を失って学んだこと~その1~
今、有名人をかたり投資話を持ち掛ける、高級時計を海外で買い付ける仕事のはずが実際は詐欺だったなど、多くの詐欺が横行している。 その中でも、巨額化しているのが「ロマン」につけ込む詐欺だ。相手の恋心を利用したロマンス詐欺が知られているが、2024年10月1日、クラシックカーにまつわる詐欺で42歳の男が再逮捕された。男は、ヴィンテージカーの仕入れとレストア(復元)に対する投資を呼びかけ、これまでに56億円を集めていたが、事業の実態はなかったという。 康平さん(65歳)は「私の場合は詐欺ではなく、夢が実現しなかったというか、そもそもその事業がなかったというか」と語る。康平さんは建築資材メーカーを60歳定年で退職し、暇を持て余した3年目に、30代の男性から「一緒に事業をしましょう」と言われ、500万円を出資したが戻ってこなかった。
兄との相続バトルが発生し、役員の切符を逃した
康平さんは都心の一族経営企業の次男として生まれる。実家兼事業所がある場所は、都心の静かな住宅地だ。 「この家で生まれ育ったことは、通学や遊び、文化の享受ができるなど、多くの利点がありました。これは父の偉業です。父は終戦を17歳の時に、横浜で迎えました。祖父が戦死し、5人いたきょうだいの3人が空襲で死んでいる。残された母親と妹を守るために必死だったようです」 戦後、何かのきっかけで米軍関係者に気に入られ、本牧の米軍住宅の中でボイラー技師のアシスタントをしていたという。 「知っているのはそこまで。饒舌で社交的な父でしたが、どれだけ聞いても昔のことは話さなかった。あの時代、誰もが生きるために必死でしたから、いろんなことをしたのでしょう」 1960年代ごろから、米軍の撤退が始まり、接収が解除されるとともに都内に引っ越したという。 「父は東京オリンピックの準備が始まる前、都心に広い土地を買って家を建てたのです。そして、ボイラーや空調など管理・点検をする会社を興します。父は70歳まで仕事の最前線に立っていましたから、カッコよかったですよ。父は70歳まで社長をしており、その後は兄が引き継ぎ業態変更して、商売は下り坂に。今は甥っ子が細々と会社を続けています」 兄は跡取りとして育てられたが、康平さんはひたすら可愛がられたという。 「兄は母に似た淡白な容姿ですが、僕は父にそっくりな濃い顔(笑)をしている。身長も高かったので、よく女の子からラブレターをもらいました。そういうところも自分に似ているから、僕のことを可愛がってくれたのでしょう」 親が兄弟の扱いに格差をつけると、憎しみを生む。父が亡くなった時の相続はもめたという。 「昭和7(1932)年生まれの父が、79歳で亡くなったのが、東日本大震災の年でした。父が長年付き合っていたガールフレンドの家で倒れちゃったからさあ大変。父は“もしもの時は康平に連絡しろ”と言っていたらしく、見知らぬ番号からかかってきて、オレオレ詐欺かと思ったら“あなたのお父さんにお世話になっている”と話し始める。びっくりしましたよ」 康平さんの母は病弱で50代で亡くなっている。その後、父は10歳年下の女性と交際を始め、その女性のもとで亡くなった。 「当時、僕は52歳で兄が56歳。父は遺言書を残していなかったので、もめました。僕は女性にも相応のお金を渡した方がいいと言ったのですが、兄は首を縦に振らない。兄弟の配分では兄と兄の妻が結託し、私の取り分が少なくなるように画策していました。兄は“お前は親父に30回以上寿司屋に連れて行かれた。俺は2回だけだ”って言うんです。遺産相続は親の愛情も関わってくると感じました」 この時期、康平さんは会社で役員になれるかどうかという出世レースの瀬戸際だった。この時期に、愛憎渦巻く争いに巻き込まれてしまったこともあるのか、部長のまま定年退職することになった。 「その3年後、役職定年の話が来たときは“ああ、ここまでか”と思いました。中堅私大の工学部を卒業し新卒で入社したときは50人、約30年で社員400人規模の会社に成長させた自負もありましたが、会社は僕を評価してくれなかったんだな、と」