龍造寺隆信を破り、島津一強になるも...一族が苦しんだ「筑後支配をめぐる矛盾」
筑後支配をめぐる矛盾と義弘の「名代」就任
龍造寺政家が島津氏との和平を望んだのは、大友側の攻勢を受けていたからであった。筑前の大友氏重臣戸次道雪・高橋紹運は、豊後勢とともに筑後に進攻し、龍造寺氏の拠点柳川城(福岡県柳川市)に迫っていた。 天正12年(1584)9月、戸次道雪らは、高瀬の義弘に対して共闘を持ちかけるが、肥薩和平を受諾した義弘は逆に筑後からの撤退を道雪に要請して、みずからも撤退する。 それでも戸次道雪らは筑後に滞陣しつづけたため、龍造寺氏は島津氏に対処を求める。大友氏は筑後を自らの分国と認識しており、龍造寺氏の従属により筑後はみずからの分国に入ったと認識する島津氏との間に見解の相違が生じたのである。島津氏は豊薩和平と肥薩和平の矛盾に苦しむことになった。 同年12月、鹿児島での重臣による談合では、大友側が撤退要請に応じない以上、豊後に進攻すべしとの強硬論が浮上している。 さらに、天正13年2月には、将軍足利義昭・毛利輝元らの使者が鹿児島を訪れ、毛利・龍造寺・島津で"大友氏包囲網"を敷くことを提案している。これが豊後進攻論を後押ししたとみられる。 筑後情勢への対応と同時に問題となったのが、義久の体調不良と後継問題であった。天正12年6月、義久は重臣に後継問題について諮問する。翌天正13年2月、重臣らは義弘を後継とすることを決定し、義久は義弘に「名代」就任を打診する。これは、「国家之儀御裁判」にあたるポジションで、同時に八代移封を求めている。 島津氏の分国が薩隅日3か国から肥後以北を含んだ6か国に拡大するなか、高度な政治的判断を義久と義弘で分有しようとの計画だったようである。義弘は当初断っていたようであるが、同年4月に受諾する。これ以後、義久・義弘は「両殿」と呼ばれるようになる。
新名一仁(宮崎市史編さん室専門員), 徳永和喜(鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長)