龍造寺隆信を破り、島津一強になるも...一族が苦しんだ「筑後支配をめぐる矛盾」
龍造寺隆信との対決と肥薩和平の成立
八代古麓城(熊本県八代市)が島津氏による肥後支配の拠点となり、阿蘇大宮司家の家宰甲斐宗運と、肥後北部支配を固めつつ肥前南部の島原半島へと版図を広げる龍造寺氏と対峙することとなった。 島原半島には日野江城(長崎県南島原市)を本拠とするキリシタン大名有馬晴信(当時は鎮貴)が龍造寺勢の圧力を受けており、島津氏に従属して救援を求めていた。 天正10年(1582)、義久は義弘に飯野から八代への移封を打診するが、田数不足を理由に断られている。肥後への積極進出に義弘は消極的であった。代わりに龍造寺氏との決戦を望んだのは、末弟家久である。 天正12年(1584)3月、龍造寺氏に対抗するため、義久みずから肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)に出陣し、家久は兵3000を率いて島原半島に出陣する。家久の目的は、龍造寺方の島原浜の城(長崎県島原市)攻略にあったが、龍造寺隆信はみずから2万5000ともいわれる大軍を率いて後詰に出陣し、3月24日に合戦となった(沖田畷の戦い、島原合戦)。圧倒的劣勢であったが、島津勢は隆信本人を討ち取り、龍造寺勢は総崩れとなった。 この勝利により、九州では大友・龍造寺・島津の三氏鼎立の状況が崩れ、島津一強となる。龍造寺氏と連携していた筑前の秋月種実は、この戦いの前から"大友氏包囲網"構築のため龍造寺氏と島津氏の和睦仲介に動いていたが、龍造寺敗戦を受けて再度和睦仲介を義久に働きかける。 同年6月、義弘らは肥後北部の龍造寺方国衆討伐を決定するが、義久は秋月氏の提案を飲み龍造寺氏との和平を受諾するよう説得する。9月、義弘は大軍を率いて肥後北部に出陣し、同月末には龍造寺氏も拠点としていた海陸の要衝高瀬(熊本県玉名市高瀬)を制圧する。 ここで、龍造寺政家・鍋島信生(後の直茂)・秋月種実から島津氏に従属する旨の起請文が提出され、義弘らはこれを受け入れる。これにより肥薩和平が成立した。 この頃義久は、対外的に6か国を支配したとアピールしており、これは薩隅日3か国に加えて、豊薩和平によって譲られた肥後国と、龍造寺氏支配圏だった肥前・筑後両国を指している。