大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎が生まれ育った町・吉原はどんな場所だったのか?
吉原で一日に千両落ちた理由
遊郭といっても、吉原は遊女屋だけで成り立った町ではない。吉原の遊客相手の飲食業も盛んだった。重三郎が養子に入った茶屋の蔦屋も、そんな飲食業者の一つである。 享保6年(1721)の数字によると、吉原の人口は8171人。そのうち遊女は2150人、遊女の使用人である禿が941人であり、遊女自体は人口の約4分の1を占めるに過ぎなかった。 遊客が吉原へ向かうルートを辿ってみよう。 まずは、舟か駕籠か徒歩で山谷堀まで向かう。舟の場合は隅田川を北上し、山谷堀に近い今戸橋の辺りで降りることになる。山谷堀からは日本堤大通りと呼ばれた土手を経由し、駕籠あるいは徒歩で吉原へ向かった。土手には、遊客相手に飲食物を提供する葭簀張の水茶屋が立ち並んでいた。 「見返り柳」と名付けられた柳の木までやって来ると、左に曲がって「五十間道」という下り坂(衣紋坂ともいう)を進む。やがて吉原の入り口である大門がその姿を現わすが、大門に入るまでの五十間道にも茶屋が立ち並んでいた。 吉原の周辺だけでなく、郭内にも蕎麦屋や鰻屋など、飲食を楽しめる店舗が数多くあった。そもそも、吉原にやって来た客といっても遊女屋にあがる者だけではない。男女を問わず、全国からの観光客が大勢訪れる人気の観光名所となっており、吉原及び周辺の飲食店は、そんな観光客相手にも飲食物を提供していた。 遊女屋にあがる際には2つの方法があった。一つは、張見世というスタイルで、店頭に出ている遊女たちを見定めた上で、意中の遊女を指名する方法である。遊女屋との交渉が成立すれば件の遊女と床をともにする運びとなる。これは料金の安い遊女に限られた。 花魁と呼ばれるような格の高い高級遊女は、そうはいかない。揚屋を通す必要があった。 揚屋とは、遊客と遊女屋を仲介する店である。遊客が揚屋にあがって花魁を指名すると、指名があった旨の書状が遊女屋に送られる。遊客は芸者や幇間を呼んで宴席を設け、花魁の到着を待つ。指名した花魁が揚屋に向かうことを道中と称したが、これが吉原の名物にもなっていた花魁道中だ。 こうした手順を踏むのが仕来りであったため、揚屋を介して吉原で遊ぶとなると莫大な費用が掛かった。揚げ代(遊女屋へ支払う料金)のほか、宴席での飲食代、芸者や幇間への祝儀も負担しなければならず、揚げ代を数倍上回る費用が必要だった。 この方法は限られた者しか利用できなかったため、揚屋を介した遊興は衰退する。それに伴い、もともとは遊客を揚屋に案内した引手茶屋が、揚屋に代わって仲介役の立場となる。 引手茶屋を通して花魁を指名する場合も、茶屋で宴席を設けることは必須である。飲食代や芸者などへの祝儀、茶屋への手数料を含めれば相当の費用を要するも、揚屋ほど格式張っていなかった。要するに安く遊べたため、吉原での遊興は引手茶屋を介したものへ移行していったのである。 重三郎が養子に入った蔦屋は、吉原にやって来た遊客に飲食を提供するだけの茶屋ではなく、遊女屋への手引きを行う引手茶屋だったのだろう。 となれば、重三郎が遊女屋に顔が利くのは何の不思議もない。それがビジネスにもプラスとなったことは、これから述べるとおりである。 江戸には「日千両」といって、一日に千両もの大金が落ちた場所が、3つあったといわれる。朝に日本橋の魚河岸、昼に日本橋など(後に浅草)の芝居町、夜に吉原遊郭で千両ずつ落ちたという喩えだが、吉原の場合、遊女屋だけで千両落ちたのではない。茶屋などの飲食店で落ちた分を含めた金額だった。 蔦屋もそんな吉原の賑わいの一翼を担ったが、重三郎は長ずるに及び、出版という新規事業に挑戦していく。
安藤優一郎(歴史家)