大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎が生まれ育った町・吉原はどんな場所だったのか?
社会から隔離された吉原
重三郎が生まれ育った吉原は、江戸のなかで遊女商売を唯一公認された遊郭の町である。重三郎が出版人として飛躍を遂げるバックボーンとなった町だが、その歴史を紐解いてみよう。 江戸開府の頃、江戸の遊女屋は市中に散在していた。しかし、庄司甚右衛門たち遊女屋の陳情を受ける形で、町奉行所は一区画にまとめることを決める。 甚右衛門たちにしてみると、江戸市中の遊女屋を一区画にまとめて統制下に置けば、遊女商売を独占できるメリットがあった。 かたや町奉行所からすると、遊女屋の取り締まりが容易となることに加え、不審者の摘発に役立つメリットもあった。当時は、市中を騒がす不審者が遊女屋に逃げ込むことが少なくなく、遊女屋が散在していたことが取り締まりの枷となっていた。遊女屋をまとめて統制下に置くことは治安対策としても有効だった。 元和3年(1617)3月、甚右衛門は町奉行所に呼び出され、市中の遊女屋を集めて遊郭を建設することが許される。その用地として、日本橋の葺屋町(現東京都中央区日本橋人形町・堀留町)の東側に隣接した、約二町(約220メートル)四方の土地(現中央区人形町周辺)が与えられた。翌四年(1618)より甚右衛門たちは同所で営業を開始するが、これが吉原遊郭である。 吉原開設にあたり、吉原以外での遊女商売は禁止された。吉原は遊女商売の独占に成功するが、その代わり、不審者がいた場合は町奉行所に届け出ることが義務付けられる。治安維持への協力を求められたわけだ。 その後、江戸が泰平の世になるにつれ、人々が遊興を楽しむ機会も格段に増える。吉原もたいへん賑わうが、江戸の人口急増を受けて、開設当時は葦が茂る湿地帯だった吉原周辺も宅地造成が進む。人家が建て込みはじめたことで、遊郭の存在が人の目に触れやすくなったため、幕府としては風俗の乱れが市中に広がることを懸念した。 そこで、吉原遊郭に対して江戸郊外への移転を命じる。明暦2年(1656)のことであった。移転先としては、隅田川東岸にあたる本所と、浅草寺裏手の日本堤(現東京都台東区千束)の二案が提示された。吉原側は抵抗するが、幕府の命令に逆らうことは許されず、移転命令を呑む。移転先も日本堤と決まった。 ただし、吉原は次の二点の見返りを得る。移転先に予定された用地の規模が、これまでよりも約5割増になったこと。もう一つは、昼間だけでなく夜間の営業も許可されたことである。 日本堤への移転準備が進められるなか、江戸で大事件が起きる。翌明暦3年(1657)正月に明暦の大火と呼ばれる大火災に見舞われ、江戸城をはじめ城下町一帯が焼け野原となってしまったのだ。 明暦の大火後、幕府は江戸の防災都市化を強力に推進する。江戸城や城下町を火災から守るため、城下の建物をできるだけ郊外へ移転させた。これは市街地のさらなる拡大の呼び水となるが、吉原移転は明暦の大火以前に決まっていたため、早くも同年8月から移転先での営業が開始される。 移転前の吉原は元吉原、移転後の吉原は新吉原と呼ばれた。元吉原は江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町の五カ町で構成されたが、新吉原は用地が5割増となったことで、五町に加えて揚屋町や伏見町が新設される。ちなみに、新吉原はそのまま吉原と呼ばれることが通例となった。 吉原の規模だが、その東西は京間(1間=約1.97メートル)で180間(約355メートル)、南北は京間で135間(約266メートル)であり、その面積は2万8000坪余にも達した。周囲には忍び返しを付けた黒板塀が廻らされ、その外側には「おはぐろどぶ」と称された堀が設けられた。いずれも遊女の逃亡を防ぐための設備だが、郭への出入りが大門一カ所だけに制限されたことも、同じく遊女の逃亡を防ぐためだった。 大門の入り口には、町奉行所の同心や岡っ引きが常駐する面番所が置かれた。不審者が吉原に紛れ込むのを防ぐためである。面番所の向かい側には、四郎兵衛会所と呼ばれた小屋も置かれ、遊女の逃亡を監視するための番人が常駐した。 このように、強制移転させられた吉原は江戸の町から隔離されていた。風俗の乱れが広がるのを何とか防ぎたいという、幕府の強い意思が読み取れる。吉原の周囲には田圃が広がっていたため、その周辺一帯は吉原(浅草)田圃と称された。田圃のなかに、ぽつんと吉原が建つ格好であった。