火山と紛争に翻弄される「風光明媚な街」 噴火から1か月、コンゴ民主共和国
日本の研究者も長年注目
――柴田所長は過去にゴマ市を訪れたことはありますか。 2010年に行ったことがあります。かつて武装勢力の構成員だった人たちを地域の警察官にするための研修をするという事業がありました。国連PKOの文民警察が中心となってフランスやマダガスカルなどから来た警察官が交通整理の仕方や、取り締まり方法などを研修する、という事業で、JICAがその活動の計画、費用負担、後方支援をした関係上、私が開会式に参加したのです。
――そのときは、02年の噴火の爪痕は残っていましたか。 すでに街の機能は戻っていました。キヴ湖のほとりの宿に泊まりましたが、湖もきれいだし、円錐形で富士山さながらのニーラゴンゴ山もとても美しかったです。もともとは風光明媚(ふうこうめいび)な観光地としても人気の街ですが、その理由が分かりました。 噴火の痕跡という意味では、大勢の警察官候補生がテントを張って研修生活を送れるようにした場所を確保する必要があり、結果として02年の噴火の後冷えて固まった溶岩の上で研修しました。8年経ってもなお再開発がされず、大きな空き地のまま残っていた、という見方もできます。 話題は変わりますが、実はニーラゴンゴ山や周辺の地溝帯を日本の研究者が熱心に調べていました。 ――なぜでしょうか。 1970年代から2000年代にかけて、日本の東北大学、北海道大学の火山研究者が継続的に観測と研究をしていました。 この一帯はアフリカで最も活発な火山地域です。地球の構造をよく理解していくために必要なマントルの湧昇流が観測できる地溝帯であり、火山や地震を研究することは間接的に地球全体の構造をよりよく理解していくことにもつながるのです。
そういうことから日本の研究者も40年以上前から来ています。残念ながら2000年代にゴマ市周辺で紛争が激化し、日本人が現地に行くことが困難になってしまいました。ただ、東北大学で後にゴマ火山観測所研究員を受け入れ、研修したり、留学生を受け入れたりするなど間接的なサポートは続いています。