《ブラジル》寄稿=ウクライナ戦争の時代に改めて読む=『ビルマの竪琴』上等兵の手紙に感泣=「無数に散らばった同胞の白骨を、そのままにして国に帰ることはできません」=サンパウロ市在住 毛利律子
インパール作戦・譬えようのない凄惨
79年前、当時、イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指して旧日本軍が進軍し、激しい戦闘の末、インド国内だけで3万人に上る日本兵が命を落とした「インパール作戦」は、ガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦場となった。 昭和19年3月から始まった戦闘には約10万の将兵が参加し、進撃と攻防4ヵ月の果て、作戦が失敗に終わり、その敗走は1千キロ、5ヵ月にも及んだ。3万502人が戦死し、戦傷病者4万1978人。損耗率実に72%という莫大な犠牲者を出したのである。 その凄惨さは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、栄養失調、赤痢やマラリアによる体力消耗、猛烈な豪雨の中での敗走中の斃死(野垂れ死)であった。道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちはこの退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だとして、「靖国街道」とも呼んだ。 水島は、この凄惨な状態を目撃して、人生の大きな決断をする。 イギリス人の経営する病院がある。その裏山には墓地がある。まさに看護師とイギリス人による埋葬の祈りが行われ、そこから合唱が聞こえてきた。その人々が去った後、水島はそこに行ってみた。新しい石の碑面には、「日本兵無名兵士の墓」と刻まれていた。水島はそれを見て呆然とした。 墓地の門のあたりから「埴生の宿」の歌声が流れてきた。 ☆ (本文より抜粋) 何ともいえぬ慙愧が私の体中を熱くしていました。―私があの濁流のほとりに折り重なっているものを見捨てて、そのままに立ち去ったことは、何という恥ずべきことだったでしょう。 異国人がこういうことをしてくれているのです。治療し、葬って、その霊を慰めるために祈ってくれているのです。私はあのシッタン河のほとりの、それからそのほかまだ見ない山の上、森の中、谷の底の、このビルマ全国に散乱している同胞の白骨を、そのままにしておくことはできません! あの「はにゅうの宿」は、ただ私が自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心にねがうふるさとの憩いをうたっている。死んで屍を異境にさらす人たちはきいて何と思うだろう! あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげるのではなくて、―おまえはこの国を去ることができるのか? お前の足はこの国の土をはなれることができるのか? ☆ 今日、パソコンの検索システムで簡単にインパール作戦の歴史的な詳細を知るが、水島上等兵の慟哭に接することはできない。 この水島の手紙を読んで初めて、戦争の凄惨の中で戦死した者、生き残った者の無念を感じることができるのではないか。
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