重い、値段が高い…でも大ヒット!“世界で一番お肉がおいしく焼ける”!?フライパン
イチローと対戦した男が挑む~赤字転落…社運をかけて大勝負
石川のチャレンジ精神の原点は高校時代にあった。石川は甲子園を目指した元高校球児。地元・碧南高校で野球部に所属、ピッチャーを務めた。県大会ではのちのメジャーリーガー、イチロー選手と戦ったこともある。 「2打席対戦しました。1打席目はあまりのオーラにびびってフォアボール。2打席目がセンターフライ。なぜ覚えているかっていうと、その当時からイチローは有名な選手だったんです」(石川) 大学で教職課程をとって母校の教師になった。監督として野球部を率い、再び甲子園を目指した。県立高校で設備が十分でなかったため、石川鋳造の倉庫の一部を室内練習場に改装。選手たちを鍛えるため、バッティングマシーンまで設置した。 「他と同じことやっていたら強くならないので、うちしかない練習方法を考えてやっていました」(石川) こうした工夫で母校を愛知県のベスト4に導いた。 30歳で石川鋳造に入社。1年半後には父の跡を継ぎ、社長に就任した。その頃、石川が気になっていたのは職人たちの働く態度だった。彼らは当たり前のようにくわえタバコで作業していた。やめるように言っても、職人に「先生あがりの若造が何を言っているんだ。俺たちのやり方に口出しするな!」と言い返された。 社長となった4年後にはリーマンショックが起きる。売り上げの柱だった金属を溶かすのに使う「るつぼ」という製品の受注が落ち込み、赤字に転落した。 「このままだと数年で会社はダメになるだろうと思っていました。自分たちで自立して会社を守っていかないといけないと感じました」(石川) 会社が自立できる商品は何か。石川が目をつけたのがフライパンだった。 「フライパンは必ず一家に1枚はあるものなので、マーケットはやり方次第ですごく大きいと思いました」(石川) しかし、フライパン作りの経験はない。しかもライバルは五万とある。鋳物の特性は何か、それを活かせる食材は何か。試作は実に1000枚以上。開発費は1000万円を超えた。 膨れ上がる費用に社内で反対の声も増えていった。父の春久さんもその一人だった。 「あまり良くないんじゃないか、と反対していました」(春久さん) 「2日に1回くらいは喧嘩していた。開発費もかかるので、『いつできるか分からないものをお前はいつまでやっているんだ』と」(石川)