プロレスブームは本物か?
最近、巷では「プロレス・ブーム再燃」が話題になっている。果たして、本当にプロレスはブームを迎えたのだろうか? 正直、その基準が難しい。何しろ、かつてのプロレスは野球、相撲と並ぶ国民的スポーツであり、大衆娯楽だったからだ。1954年2月に力道山がシャープ兄弟を呼んで日本初の本格的な国際試合を開催したことで文字通りブームに火がつき、街頭テレビに何万もの人が群がってテレビの普及に貢献したことはよく知られている。63年5月24日に日本テレビで生中継(午後8時~9時15分)された力道山vsザ・デストロイヤーの関東地区の視聴率は何と64%(ビデオ・リサーチ調べ)! これは同局の史上最高視聴率だ。 63年12月15日に力道山が急逝した後もプロレスの灯は消えず、72年春までジャイアント馬場が日本テレビの金曜夜8時、ゴールデンタイムの顔となって20~40%の視聴率を稼ぎ、73年春~86年秋にはアントニオ猪木がテレビ朝日金曜夜8時のゴールデンタイムの顔となって20%前後の視聴率を弾き出していた。馬場、猪木ともに「テレビが一番の娯楽」という時代のゴールデンタイムで10年以上も主役を張ったのだから、知らない人は誰もいない、文字通りの国民的スターだったのだ。 平成に入ってからも新日本プロレスは武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士が人気を集めて93年に両国国技館7連戦、97年には東京ドーム2回、大阪ドーム、ナゴヤドームの4大ドーム大会を開催し、98年4月4日の東京ドームにおける猪木引退試合は7万人の大観衆を動員。全日本プロレスも三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太(現・建太)の四天王プロレスの人気が爆発して94年~97年には年7回の日本武道館、98年は日本武道館6回と東京ドーム、99年には日本武道館7回と東京ドームのビッグマッチを開催している。 そうした過去を知るファンや関係者は「プロレス・ブーム再燃」と言われても「まだ物足りない」という感覚を持つかもしれないが、99年からゼロ年代初期の数年、総合格闘技ブームに押されていた暗黒期を思えば、ここ数年のプロレスの元気さは「キテいる!」と言っていいだろう。昔とは時代も状況も違う。今やプロレスのテレビ地上波が深夜帯のテレビ朝日『ワールドプロレスリング』だけというのを考えれば「プ女子」と呼ばれる女子プロレスファンまでもが急増している今の現象は、本格ブームの兆しととらえていいのではないか。 現在、ブームが話題になっている一番の要因は業界の盟主・新日本プロレスが好調なこと。05年11月にアントニオ猪木が保有していた株式51・5パーセントをゲームソフトの開発・販売する株式会社ユークスが取得して親会社になったことで、新日本は昭和のストロングスタイルに縛られることなく、棚橋弘至、中邑真輔など若い選手がリング上の主役にとなった。ゲームソフトを手掛けるユークスにとって”若者が憧れるカッコイイ選手”の売り出しは絶対条件。その結果、選手それぞれがキャラクターを発揮し、幅広い年齢層の観客が楽しむスポーツ・エンターテインメントが創り上げられた。さらに経営面も徹底的に見直され一企業としても生まれ変わった。