「ラモスさんに声をかけられ障がい者とプレー」北澤豪 中学時代から始まった支援の眼差し「墜落事故をきっかけに」
長い髪をなびかせ、現役時代さながらのスリムな体型の元日本代表サッカー選手・北澤豪さん。じつは障がい者や途上国といったサッカー選手に対して、長きにわたる支援を続けていました。(全4回中の1回) 【写真】面影たっぷり!障がい者とのプレーを始めた中学生の北澤豪さん ほか(全18枚)
■障がいのある選手と練習するのは当たり前だった ── 元サッカー日本代表で、現在は、日本障がい者サッカー連盟会長でもある北澤さん。そもそも障がい者サッカーに触れるきっかけになったきっかけを教えてください。 北澤さん:中学時代、読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)のジュニアユース(15歳以下の中学生年代)に所属していたのですが、TOPチーム選手として活躍していたラモス(瑠偉)が、耳が聞こえない子や目の見えない子など、障がいのある子どもたちを連れてきてサッカーをしていたんです。ラモスから「一緒にやろうよ」とうながされ、プレーをしたのが彼らとサッカーで交流をしたきっかけでしたね。「ブラジルでは、障がいの有無に関わらず、みんなで一緒にサッカーをやるのが当たり前の光景だよ」と聞き、「へえ、そういうものなのか」と。最初は、障がい者の人たちに対して壁があるのではと思っていたけれど、一緒にプレーを楽しむうちに、そうした気持ちはすっかりなくなりましたね。
── 障がい者と健常者の子どもたちが一緒にサッカーを楽しむ。素晴らしい光景ですね。 北澤さん:読売サッカークラブは当時から海外を強く意識していて、その理念に共感する人たちが集まっていました。クラブ内も自由でフランクな雰囲気で、理不尽な上下関係もない。みんな「くん」呼びだし、上の人たちのこともニックネームで呼んでいましたね。当時は日本唯一のプロチームで、大学教授やデザイナーなど、サッカーをしながら二足の草鞋を履く選手もいて、僕ら若者に刺激を与えてくれるカッコいい大人がたくさんいました。
ユースでは海外遠征にも何度か行き、ドイツではリトバルスキー(元ドイツ代表で日本でのプレー経験もあるサッカー選手)のいるチームとも戦いましたが、僕らのほうが強かったんですよ。だから「日本のサッカーは世界と比べて決して劣ってない」と感じていました。ただ、20歳前後から肉体的な差が出てきて逆転しちゃう。どうすれば、その差を埋められるのかなと考えていましたね。 海外と日本では、サッカーに対する考え方や環境、位置づけなどがまったく違っていました。海外のクラブチームは、地域に根差した社会貢献がすごく盛んで、選手たちも自分が成功するとその影響力を活かして地域や人々のために還元するんです。少年時代からそんな海外のサッカー文化に憧れ、日本もそちらの方向を目指すべきではないか、サッカーに対する位置づけを変えていかなくてはという思いを抱くようになりました。