名物がないなら作ればいい ~横浜名物「シウマイ」を生んだ、崎陽軒・初代、野並茂吉の精神とは?
【ライター望月の駅弁膝栗毛】 「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。 【写真全10枚】歴代シウマイ娘の衣装(横浜工場・見学コースに展示)
私は15年間ほど、“あなたのまちの小自慢・プチ自慢”というテーマでおたよりを募集して、紹介するラジオ番組の構成を担当していました。“私のまちには何もない“とは言わずに、自分が暮らすまちのいいところを探してもらうのが趣旨でした。いまからおよそ100年前、関東大震災から復興を目指す横浜のまちで、誇りを持てる名物を作ろうと奔走していた駅弁屋さんもまた、横浜のいいところを探して回っていたのかもしれません。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第50弾・崎陽軒編(第3回/全6回)
横浜市保土ヶ谷区と戸塚区の境には、東海道本線の清水谷戸(しみずやと)トンネルがあります。この上り線は明治20(1887)年に造られた現役最古の鉄道トンネルで、いまも東海道本線の列車が走り抜けていきます。ちなみに伊豆急下田行の「踊り子」号が飛び出してきた下り線は、明治31(1898)年の開通。こちらも125年以上の歴史があります。東海道本線、横浜駅の歴史は、日本の鉄道史そのものといっても過言ではありません。
今や横浜の名物といえば、何といっても「シウマイ」です。「シウマイ」という言葉を見たり聞いたりしただけで、何となくおいしい香りが頭のなかに広がります。この「シウマイ」は、いかにして横浜名物になっていったのでしょうか。横浜駅の鉄道構内営業から生まれた株式会社崎陽軒の4代目、野並晃代表取締役社長にお話を伺っています。
●中華街を歩き回ってたどり着いた「シウマイ」
―昭和3(1928)年、関東大震災からの復興のなかで、横浜駅は再び移転して、いまの場所が3代目横浜駅となりました。この年、崎陽軒では「シウマイ」を発売したんですね。 野並:横浜駅は東京駅から近くて、構内営業にはあまり適した駅ではありませんでした。加えて、横浜は新しいまちでしたので、これといった名物もありませんでした。“当たり前のもの”ばかりを売っても、土産物としての特徴もありません。当時の東海道本線には小田原の蒲鉾、沼津の羽二重餅、静岡のわさび漬けといった名物がありました。そこで「名物がないなら、作ればいい」という気概が生まれてきたわけです。 ―南京町(いまの横浜中華街)で、どのようにして焼売に出逢うことになったのでしょう? 野並:初代・野並茂吉は、崎陽軒の共同代表だった久保元横浜駅長の孫である久保健(くぼ・けん)氏(のちに日中戦争で戦死)と一緒に名物になりそうなものを探しながら南京町を歩いて、突き出しとして出されていた焼売に注目します。そして、点心職人の呉遇孫(ご・ぐうそん)氏と出会い、「冷めてもおいしい焼売を作ってほしい」と依頼しました。南京町で販売されていた焼売を、駅の構内で売るのに適した形にして売ろうと考えたわけです。