名物がないなら作ればいい ~横浜名物「シウマイ」を生んだ、崎陽軒・初代、野並茂吉の精神とは?
●空から「シウマイ」の無料券付きビラをまいてみた!
―初代・茂吉氏の北関東訛りから「シウマイ」という表記になったそうですが、最初の売れ行きは、いかがでしたか? 野並:「シウマイ」の発売当初は、1日10折から20折だったという記録が残っています。いまでも弊社が新作を発売しても、すぐにドーンと売れることはありませんので、こればかりは致し方ないかと思います。そこで、当時はあまり珍しくなかった広告らしいですが、小型飛行機に「崎陽軒のシウマイ」と書いた吹き流しをつけて飛ばしていたそうです。そして、「シウマイ」の無料引換券が付いたビラを、空からパーッと撒いたそうです。 ―「シウマイ」は出来ましたが、今度は戦災で大きな被害を受けてしまいます。それでも、初代の茂吉社長は立ち上がったわけですね? 野並:昭和20(1945)年の横浜大空襲で、弊社社屋は二度目の焼失となりました。でも、戦前から展開していた崎陽軒食堂の経験を活かして、戦後、横浜駅構内に「KY食堂」を立ち上げました。打ちのめされてもタダでは起きなかったわけです。当時の諸先輩方は、すごいと思います。今年(2024年)の能登半島地震で被害に遭われた方も生活を守るため必死に立ち上がっていらっしゃいます。同じように立ち上がっていったのだと推察します。
●明るい時代へ、タバコの広告にヒントを得た「シウマイ娘」!
―そして、昭和25(1950)年には、「シウマイ娘」が登場するわけですね? 野並:初代の茂吉が、銀座の街頭でタバコを配っていたピース娘にヒントを得て登場させたのが「シウマイ娘」でした。当時、駅の立ち売りは男性の売り子が主流でした。そのなかで女性の方が、可愛らしい籠を持ってフリフリした華やかな衣装にたすきをかけて横浜駅のホームに立ったことで人気を博して、映画化もされました。ただ、列車のお客様とやり取りする必要がありますので、シウマイ娘には身長158cm以上という制限がありました。 ―初代・茂吉社長は、震災・戦災を乗り越えてきたわけですね。 野並:こういう“歴史上の人物”の血が、自分には流れているのかという思いはあります。震災から立ち上がり、戦災から立ち上がってきたという事実はある以上、直近で言えば、コロナ禍のような大変なことがあっても、単に「コロナが明けた」ではなくて、ただでは起きずに、その後に何を作っていけるのかということを考えるところは、初代・茂吉の時代から残っている、弊社の精神性なのかなと思います。