「舞台裏で男性歌手とすれ違っても敵意をむき出しに」 水前寺清子が明かす“バチバチ時代”の紅白歌合戦と、美空ひばりとの“確執”の真相
精神安定剤が効きすぎて……
68年には初めて紅組の司会をやらせていただきました。 でも本番が始まる10分くらい前に心臓のドキドキが止まらなくなって、かかりつけのお医者様にもらっていた精神安定剤を飲んだんです。そしたらうまく気持ちが落ち着いたので「これはいい」と思ってもう1錠。ところが今度は薬が効き過ぎたか意識がもうろうとし始め、開会式の選手宣誓で「昭和43年」を「34年」と言い間違えるミスを犯してしまいました。 でも白組司会の坂本九さんがとても丁寧にフォローしてくださって。当時は私も若く、出場歌手の皆様は先輩ばかりでしたが、九さんの胸を借りるつもりで、背伸びをせずやれることを精いっぱいやらせていただいた記憶があります。
「未熟な私が美空ひばりさんを紹介するなんて失礼」
2度目に紅組司会を務めさせていただいたのは71年。この年は、私が「美空ひばりさんの曲紹介を拒否した」と間違った情報が駆け巡り、年明けに釈明の会見を開く騒動にまで発展しました。 その前の年の紅白でひばりさんは紅組の司会をされたのですが、その際、大トリでもあったひばりさんの曲名だけ白組司会の宮田輝アナウンサーが紹介されたのです。その名残で、71年もひばりさんの曲紹介だけは白組司会の宮田さんが行うことになっていた。それだけの話なのに週刊誌には面白おかしく「女王・美空ひばりとの確執」と書き立てられて……。 私にとってひばりさんは雲の上の存在です。私にも「仮に司会者であっても、未熟な私が美空ひばりさんを紹介するなんて失礼」という思いがありましたし、確執なんてあるはずがないんですよ。 今の方は「そんなことで釈明会見だなんて大げさな」と思われるかもしれませんが、当時はそれくらい紅白に対する世間の注目度も高かった。放送の前も後も週刊誌やスポーツ紙、ワイドショーでは連日のように紅白歌合戦に関する報道が飛び交っていたのです。
「司会を辞退する」と女性週刊誌に電話で抗議
73年には3度目の紅組司会の話をいただきましたが、私が紅組司会を務めることを巡って、この「事前報道」がさらに過熱。「チータがNHKと裏交渉をして密約を結んだ」とか「直前に別の歌手から水前寺に差し替えられた」とか、あることないことを書かれて、私自身も女性週刊誌の編集部に深夜、「こんなことばかりを書かれるなら司会を辞退する」と泣きながら電話するなど、異例の事態となってしまいました。 結局、時間が解決してくれ、年末には騒動が沈静化。私は無事、紅白の舞台に紅組司会として立つことができました。一時はどうなることかと私自身もヒヤヒヤしましたが、それだけ紅白が歌手にとっても日本人にとっても大きなお祭りだったということなのでしょう。