詩人・谷川俊太郎 × 歌手・小林沙羅 「日本の詩」の残し方
現代の詩人の役割とは
― 言葉にはライブ性がある、ということでしょうか? 谷川 海外の俳優がメニューを読んで人を泣かせたっていう話がありますが、ライブで何かを声に出して表現していると、ここで泣かせるんだって、頭に浮かんだことを伝えられるんだよね。ただ自作朗読の問題のひとつは、自分で自分の詩を解釈してしまうっていうところにあるんです。声に出すとそこに解釈が入ってくる。でもそれが唯一の解釈だと思われると困るんです。活字はその点、読者に自由な解釈をゆるすという面がありますね。 小林 俊太郎さんの朗読って、解釈をあまり入れない読み方だなってすごく思います。いろんな読み方があるっていうのは、詩は演劇ではないけれど演劇的要素にもつながってくるのかな、と。100人いれば100通りの読み方があっていいなって。 谷川 演劇的部分を避けすぎても、詩の力はなくなっちゃいますからね。詩の読み方は芝居のセンスとはまた違うんだけど、なんだか難しいところですね。 ― 昔と比べ詩人と名乗る人が少ない印象がありますが、現代の詩人の役割はどこにあるとお考えでしょうか。 谷川 最初っから僕は、自分が詩を書くことが誰かの役に立つんだろうかって考えていました。いまの世の中でどういう役割があるかということは、私の場合で言いますと、これまで何十年もやってきましたから、そこに一種の実績みたいなものがあって、それがいまどう受け取られているかということで考えるしかないですね。そんなにおおげさな役割があるわけじゃなくて、すごく小さな役割としてはあると思います。
SNSとは対極にあるのが詩
― 最近、詩の受け手側の反応が昔とは変わってきた部分はありますか。 谷川 簡単にいうと詩の本は売れなくなってきました。絵本のほうが売れます。いま詩っていうのは拡散しちゃっているんですよ。それこそポップスを聞いているとか漫画を見るとか、いいファッションを着るとか、そういったことが全部詩情、ポエジーっていうものにつながってると思うのね。そういうところで自分の詩情を満足させてしまうから、難解なことの書いてある詩を読む必要はないんじゃないかな。 ― 詩の場合、あえてダブルミーニングにしてあいまいにすることがあっても、SNSではあいまいさを排除して解釈の余地がないような書き方が好まれますよね。 谷川 学校教育もそうですね。全体的な風潮として解釈は明確にしたほうがいいという傾向はありますよね。でも、詩はそれとは対極にあって、多義的で、意味がいっぱいあるような感じのもので、言語の持っている含意が詩にとって武器になるんですよね。詩っていうのはすごくあいまいなものなのに、なんでこれをこういうふうに書いたんだ、って言われると作者としては困っちゃうわけですよ。