小説家・吉村昭「最も気持が安まるのは書斎」遺言通りに、骨壺は書斎に置いて。妻・津村節子の家には、今も夫婦の歯ブラシ2本が並ぶ
『星への旅』で太宰治賞を、『戦艦武蔵』や『関東大震災』で菊池寛賞を受賞した吉村昭と、『玩具』で芥川賞を受賞した津村節子。小説家夫婦である2人は、どのようにして結ばれて人生を共に歩んだのか、そして吉村を見送った後の津村の思いとは。今回は、吉村が旅立った後の家族の様子をご紹介します。 【写真】吉村昭さん「私にとって最も気持が安まるのは書斎、と生前話していた」 * * * * * * * ◆死期を悟っていた吉村昭 吉村は朝食を終えて書斎に入ると、まず前日の日記をつける習慣があった。 日記には天候とその日の出来事しか書いていない。日記をつけ始めたのは、学習院高等科に入ったときからで、会社勤めのときなどは一時中断したが、再開してからは博文館の一年の日付が印刷された当用日記を愛用していた。 亡くなった年の1月1日の摘記欄には、〈これが、最後の日記になるかもしれない。〉と書いている。日記は入院中の7月22日まで毎日つけられていた。『死顔』の「遺作について――後書きに代えて」には次のようにある。 〈7月18日の日記に、――死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ。但(ただ)し書斎に残してきた短篇「死顔」に加筆しないのが気がかり――と記されている。〉 おそらくこの時点で死期を把握したのだろう。司はこの日記を読んでいたという。 「父の日記は亡くなった7月のところを読みました。7月に入って字が乱れていて、文字が思い出せないと書いてありました」
◆吉村の看病に専念しなかったことを後悔 津村も、のちになってその頃の日記を読んだ。 〈節子、寝ているうちに帰る。〉 入院中に吉村が記したその一行に、津村は打ちのめされた。病室での夕食を終え、吉村が眠るのを見届けて津村は家に帰った。 吉村の病は予期せぬものだったので、津村は連載の仕事を引き受けていた。 作家であることと、妻であること。愛する夫の今際(いまわ)の際(きわ)に、なぜ妻だけの存在でいられなかったのか。仕事を中断し、看病に専念しなかった悔いに津村はさいなまれた。