日本の伝統工芸品を「世界で売れる」化するためにやったこと
尊重と相互理解が、人脈を作る
多くの部下を抱え、億単位の契約を成功させた経験もある堀井。だが、それらは大手百貨店マンだからこそできたこと。 会社設立当時、すでに63歳。堀井のもとにいた従業員はたった1人。どんなに自信があっても、実績も歴史もない堀井の会社と取引してくれる設計事務所は見つからなかった。 「やっていけるのか」。不安がよぎった。突破口となったのは、香港勤務時代に培った現地従業員との絆だった。 1980年代後半。香港出張所の所長を務めていた堀井の前に、片言の日本語を話す20代の青年が現れた。「百貨店で働かせてください。日本のビジネスを教えてください」と青年は懇願した。 端正な顔立ちに、礼儀正しさと洗練された装いが印象に残った。「この男なら、百貨店の『顔』になれるかもしれない」と堀井は思った。 「僕はインテリアの知識と日本のビジネスを君に教える。だから、君は香港のことを僕に教えてくれ」 堀井は青年に交渉を持ち掛け、彼を現地従業員として所長権限で採用した。 青年と堀井は、二人三脚で香港の販路開拓に励んだ。目に入った商業ビル内の会社に飛び込み、片っ端から営業をかけた。「どんなことでもします、どうか仕事をください」と2人で頭を下げて回った。 青年は、堀井に中華圏のビジネスマナーや日々の習慣を教えた。堀井自身も現地に馴染むべく、青年に呼ばれた食事会には夜中でも駆け付け、地元民御用達のバーでは広東語で歌謡曲を歌った。 80年代のアジア諸国は現代とは比較にならないほど貧しく、バブル期の日本との経済格差も著しかった。そうした背景から、堀井と青年との交流に懐疑的な立場をとる者も少なくなかった。「香港の連中を信用するな」と言われたこともある。だが、堀井はそうした声に耳を貸さなかった。 「それぞれの国には、それぞれの誇りと文化がある。香港には香港のやり方がある。彼なしでは、ここでビジネスなんかできない」と批判を突っぱね、青年を香港出張所の根幹に据え続けた。 それから約20年。独立後に取引先探しが難航していた堀井を救ったのは、青年だった。 青年は、香港有数の高級不動産向け内装業者の社長になっていた。堀井の苦境を知るや「香港に来ませんか。会ってほしい人がいるんです」と持ち掛けた。 紹介されたのは世界屈指の高級ホテル「ザ・リッツ・カールトン香港」の内装責任者。責任者は堀井が持参した京都の伝統的織物・西陣織のサンプルを気に入り、メインロビーと宴会場の壁面を西陣織素材で装飾するよう依頼した。 1000万円を優に超える契約だった。この仕事が突破口となり、東南アジア全体に販路が広がった。シンガポールに進出する際は、ジェトロのハンズオン(専門家派遣)支援も利用した。シンガポール在住の専門家から代理店紹介や営業サポートを受け、不動産関連企業との人脈も得た。 「堀井と仕事がしたい」という関係者たちの声が、次のビジネスを生んだ。輸出先は現在、東アジア・欧米・中東を含む世界15ヵ国にまで広がった。 堀井は、訪れた国の新聞やニュースをチェックし、その地に根付く歴史や文化、言語を学ぶことを忘れない。 「どんな国であっても、その地の人々が持つ誇りや伝統を尊重すること。対等な立場で向かい合い、彼らの言葉や文化を知ろうとすること。テクニックじゃない。そういう姿勢が人脈を作り、『あなたと仕事がしたい』と言ってもらえる信頼と人間関係を作る」と語る。