“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”
“新しい女たち”に振り回された男たち
ただ、安子もまた、安心はできなかった。今度は若き美人作家真杉静枝が一時、崇拝する実篤に急接近。愛人として浮名を流している。 安子は寡黙でしんが強く、房子とは対照をなす女だったが、芸術に興味を持ち、身一つで九州の山奥の「村」に乗り込むのだから、房子同様に「新しい女」だといえなくもない。「村」、否、「村の男たち」はまさに、“新しい女たち”によって振り回された感がある。 「主宰者」を中心とした痴話騒動がありながらも、「村」自体は存続していった。太平洋戦争の開戦前、新「新しき村」として埼玉で広大な土地を開墾。支援者たちによる「村」の支部も全国各地にできた。房子は杉山正雄と再婚して宮崎に残り、その後97歳で大往生するまで暮らし続けた。 実篤は「村」を出てからも、色紙などに描く得意の絵や執筆活動で稼いだ金を村に送っていた。この支援は、昭和51年、妻安子とほぼ同時に逝去するまで続けられた。
「誰とでも仲良くする房子さん」
宮崎の「村」の元住人で、現在は埼玉の「村」に住む根津与(96歳)は述懐する。 「房子さんは誰とでも仲良くするところがあってねえ。明るくていい人なんですけど、恋愛関係ではいろいろとありましたから、実篤先生は心配そうでしたね。安子さんの方は大人しくてしっかりしていて、尽くすタイプ。私が先生の家に行くといつも台所にいて、甲斐甲斐しく何かしてました。先生ご自身は、物事にこだわらない人でした。村のルールを乱すことには厳しくて、『結婚の“事後承諾”は嫌いだ』なんて言うのですけれど、結局は許しちゃうんです」 房子は晩年、実篤について次のように振り返っている。 「武者小路には俗っぽいところがないの。純粋なの。だから人間的欲望に対しても純粋なのね。(略)ずっと離れていたけど、誰よりも武者小路を理解していたつもりなの。おかげで賢くなったわ。(略)何ともいえない温かい人なの。そばにいるだけで、お火鉢のように温かさを感じる人なの。だからこそ、無責任なこといったりしても、誰にも恨まれなかったのよ」(「週刊新潮」昭和51年4月22日号) 埼玉の「村」の住人は、約30年前は50人以上を数えたが、もう半分ほどにまで減った。宮崎の「村」にも数人が残るのみだ。住人の高齢化も著しい。毛呂山にある、実篤の有名な「かぼちゃ」の絵や資料が並ぶ美術館では、これもよく知られた格言「仲良きことは美しき哉」と書かれた色紙が、一際目立って飾られていた。 *** この記事が執筆された2006年当時、村の住人は20数名。そこから18年を経た2024年、3名にまで減少しながらも村は存続しているが――。第2回【「武者小路実篤」が私財をつぎ込んだ“理想郷”が「限界集落」に…残った村民は3人だけで「現状維持が精いっぱい」】では、今年7月に村を再訪した菊地正憲氏が「2024年の新しき村」が直面している問題について書き下ろす。 菊地正憲(きくちまさのり) ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。 デイリー新潮編集部
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