“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”
シンプルな「共生」のユートピア
実篤は当時の「婦人公論」誌上で、「村」の性格を次のように説明している。 「我等は他人に支配されることを嫌ふものである。同時に自分のなすべきことは責任をもつてなさうと云ふのだ。(略)そして成さねばならぬことだけ協力でして、あとは自由にしやうと云ふのである」(「新しき村について」) 実篤にとって、「村」建設は文学と並ぶ人生目標だった。自ら農具を持ち、慣れない農作業に勤しむ日々。折しも、ロシア革命が勃発した翌年のことだ。まだ目新しい思想だった共産主義が、理想を求める文学者や芸術家の心を捉えていた時代でもあった。 シンプルな「共生」のユートピア。実篤本人は大真面目だったのだが、この「村」の人間模様は、実は複雑極まりないものだった。その中心にいたのが、最初の妻房子である。夢を果たす途上で、さまざまな波紋を投げかけたのだ。
房子の積極的なアプローチ
明治18年(1885年)生まれの実篤は、朴訥とした風貌そのものの「おぼっちゃん」である。東京の公家華族に生まれ、学習院中・高から東大に進学後、中退して文学の道に入った。ただ、恋愛については、失恋を何度も繰り返し、あまりモテる方ではなかった。自らの失恋体験を題材にした小説「お目出たき人」では、主人公に「誠に自分は女に餓えている」と言わせしめているほどだ。 一方、明治25年生まれの房子は、福井県の豪農で貴族院議員だった竹尾茂の妾腹の子。金に不自由はしなかったものの、複雑な生い立ちにコンプレックスを抱く人物だ。福井高女で学んだ後に上京し、平塚らいてうが主宰する、進歩的な“新しい女”が集う「青鞜社」のメンバーになった。このころ、宮城千之という人物と最初の結婚もしているが、間もなく離婚。特別な美人ではなかったが、自由奔放な女性で、宮城以外にも関係を持った男が複数いたとされている。 そんな2人が恋に落ちたきっかけは、房子の積極的なアプローチだった。実篤に熱を上げ、1人で自宅に押しかけてきたのである。房子との交際をモチーフに書いた実篤の小説「世間知らず」では、出会いのころの感想が紹介される。 「知らない女の人が来たいと云うのは生れて始めてだったから、図々しい女もいるものだと思った」