なぜAI分野がノーベル物理学賞を受賞できたのか? 人工知能(AI)のブレークスルーを生み出した複雑物理系の理論
スピングラスも複雑物理系である、と捉えたノーベル賞委員会
スピングラスは複雑物理系であると委員会は捉えた。パリジは近年鳥の群れの研究など他の複雑系の研究にも精力的に取り組んでいた。委員会は気象現象や気候変動も典型的な複雑物理系だと捉えた。数日から1週間程度の気象変化がカオスであり予測が不可能である複雑現象だという認識は、“バタフライ・エフェクト[i]”で知られるエドワード・ローレンツ(1991年度京都賞)によって最初に与えられた。ローレンツカオスの発見である。この発見が一つの契機となりカオス力学系(非線形力学系)という分野が数学、物理学の中で確立していき、工学の各分野にも大きな影響を与えた。残念ながら、ローレンツは亡くなってしまったので彼自身は今回の受賞者にはなれなかったが、クラウド・ハッセルマンらがローレンツカオスを気候変動の理論の基礎に置いた。 「奇跡の年」(Annus mirabilis)と呼ばれる1905年のアルベルト・アインシュタインの二つ目の論文はブラウン運動の理論であり、ミクロな分子の熱的なランダム運動によってマクロなブラウン粒子に拡散運動が起こることを示したものだ。気候変動現象ではスケールを変えてこれと同じことが起こっているのではないかとハッセルマンらは考えた。マクロな気象現象がローレンツの指摘のようにカオスならば、さらにスケールの大きな10年程度の地球規模の現象である気候変動は拡散的な方程式に従い、その導出は統計力学ではおなじみのランジュバン方程式[ii]から導出されるフォッカー・プランク方程式[iii]に基づくものになるだろうと予想した。
気候変動問題もまた複雑物理系である理由
他方、気候変動問題を一次元鉛直方向の数理モデルとして定式化し、大規模な計算機実験を行ったのが眞鍋叔郎である。眞鍋は地球大気の二酸化炭素濃度が2倍になれば、大気温度が約2.3℃上昇することを計算で導き出した。この問題は、1896年にスヴァンテ・アレーニウス(1903年ノーベル化学賞受賞、アインシュタインが1921年度ノーベル物理学賞を「光電効果の理論」によって受賞した時のノーベル賞委員会委員長(後述))が「二酸化炭素が2倍になると大気温度が6℃上昇する」と予測して以来の問題であるので、当然委員会は眞鍋の結果に注目していた。おりしも、気候変動問題、地球温暖化問題が深刻さを増しており世界中の関心の的となっていたことも受賞を後押ししたと思われる。この気象カオスから導かれる気候変動問題も複雑物理系であると委員会は認識したのだった。 [i] バタフライ・エフェクト 力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とはその後の系(システム)の状態が大きく異なってしまうという現象。気象学者ローレンツによる「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか」という問いに由来する。 [ii] ランジュバン方程式 確率変数の時間変化が確率変数の減衰項と外部からの揺動力で与えられるような関係を表す常微分方程式をフランスの物理学者ランジュバンにちなんでランジュバン方程式という。 [iii] フォッカー・プランク方程式 確率変数の分布関数が従う偏微分方程式で、分布関数の時間に関する一階微分と確率変数に関する二階微分で近似した分布関数の拡散方程式をフォッカー・プランク方程式という。ランジュバン方程式が与えられると対応するフォッカー・プランク方程式を決めることができる。 人工ニューラルネットワーク研究を牽引してきた日本。なぜノーベル賞を逃したか? へ続く
津田 一郎/文春新書