戦前に夏の甲子園大会で台湾代表が準優勝していた!? 民族を超えた球児たちの努力と絆の物語
全国高等学校野球選手権大会、通称「夏の甲子園」が盛り上がりをみせている。全国の高校球児たちが憧れる夢の舞台だが、戦前は「外地」にも大勢の球児がいた。1931年夏、台湾代表・嘉義農林野球部が快進撃の末に決勝に進出するというニュースが日本を駆け巡った。今回は映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』のモデルになった戦前の球児たちの民族を超えた物語をご紹介する。 ■戦前に朝鮮・満州・台湾の「外地」で甲子園を夢見た球児たち 台湾は、日本が日清戦争の勝利によって得た最初の植民地で、その支配は半世紀に及んだ。日本人は野球ブームを台湾に持ち込み、明治30年代末にはすでに各地で野球が行われていた。 その延長で中学野球が始まる。最初に野球部を作ったのは総督府国語学校附属中等部で、後の台湾一中、現在の建国中学である。当時の田中校長が率先して、明治39年(1906年)に創部した。 それに刺激され、同じ国語学校の附属師範部も野球部を作ったのである。この師範部には野球経験者がいたため、みるみる上達した。そして、パイオニアとしての誇りに燃える中等部と、初めての試合を行ったのである。試合は白熱して大接戦となり、5対5の引き分けになった。 この試合は台湾北部のスポーツ界に大きな刺激を与え、野球熱は大いに盛り上がり、次に台北中学会チームが誕生した。このチームは、官庁や会社に勤めながら学ぶ者たちの集まりだった。以後、この三者が鼎立する。 当初、中学会チームは昼間働いていることもあり、今一つ精彩を欠いていた。だが、二高(現在の東北大学)で投手を務めていた人間が、台湾総督府に就職。コーチに就任して国語学校中等部を破ったのである。すると中等部は、三校(現在の京都大学)からコーチを招いて、中学会チームに雪辱を果たすという具合だった。 明治42年(1909年)には、中学会出身者に有志を加えた高砂(たかさご)倶楽部が誕生する。台湾初の正式な野球チームだった。翌年には中学会主催の台北大会が開かれ、なかなかの盛会になった。その後、大学野球の経験者が次々に台北にやってきて、野球熱はいよいよ増していった。 やがて、北部だけでチーム数が10を超えるようになり、大正3年(1914年)には北部野球協会が結成されたのである。これが台湾野球の本格的なスタートとなった。大正9年(1920年)には下村民政長官の主唱により、財団法人台湾野球協会が設立されている。 台湾野球界は大正6年(1917年)に早稲田大学を、翌年には法政大学を招聘して試合を行った。南部の台南でも、明治43年(1910年)には台南郵便局有志と砲兵隊によって、最初のチームが作られている。 サトウキビが採れる南部には、日本から製糖会社が多く進出して賑わっていた。大正2年(1913年)には、台湾製糖野球チームが誕生した。翌年には第1回南部大会が開催され、さらにその翌年には台湾新報主催による南北対抗戦も開かれている。 当時、内地と呼ばれていた日本国内からも、次々に大学の野球チームが遠征試合にやってくるようになった。大正9年(11920年)には台北中学が、北部の港町・基隆に寄稿したアメリカ東洋艦隊の巡洋艦乗組員チームと対戦し、大観衆が押しかけた。 さらに大正11年(1922年)には南部から、高雄実業チームが内地に初の遠征を行っている。ちょうどその頃、原住民族に運動的資質を見出した台湾人が、アミ族だけのチームを作っていた。 それを、花蓮港の首長だった江口良三郎が知ったのである。江口は彼らを花蓮港農業補修学校に入学させ、「能高団」と命名した。ちなみに台湾では、先住民族と言うとすでにいなくなっているという印象を与えるということで、原住民族と呼んでいる。 アミ族は、東部沿岸地域に住んでいる最大の狩猟民族である。「能高団」は大正14年(1925年)に、見学を兼ねた内地遠征を行った。結果は3勝4敗1引き分けで、内地の日本人を驚かせた。その能力の高さに着目した平安中学は、「能高団」メンバーのうち3人を留学生として招き、強豪校となって甲子園出場を果たした。 そして大正11年(1922年)、台湾の民政長官から朝日新聞の重役に転身していた下村から、甲子園大会参加の誘いが来たのである。同じ外地でも、すでに朝鮮と満州は前年から参加していており、これで外地の代表が出揃うことになる。 そこで台湾の中等野球界は参加を決め、翌年に全島予選会を開いた。その結果、記念すべき第1回代表は台北一中、かつての国語学校中等部となった。初めて出場した本大会では、立命館中学に23対4という大差で敗れた。しかしこれが、昭和6年(1931年)の準優勝につながっていくのである。 実はその前年、日本人を驚かせる事件が起きた。日本統治に対して原住民族が武装蜂起した、霧社事件である。台湾統治はうまくいっていると思われていたし、原住民族主体の野球チームを、民族を超えて応援するようになっていたからである。 しかも霧社事件は、台湾300年記念全島中等学校野球大会の開催中に起きたのだ。各方面への影響を恐れた総統府は直ちに制圧した。同時進行で起きた真逆の二つの出来事は、どちらも台湾統治の実情だったのだろう。 その翌年、台湾代表になったのが嘉義農林である。高砂族(現在の高山族)、台湾本島人、日本人の三民族混成チームだった。正式名は台南州立嘉義農林学校で、野林業に携わる人材を育成するために設立された。現在は国立嘉義大学になっている。台湾ヒノキの日本への輸出は、製糖と並ぶ南部経済の柱になっていた。 嘉義農林野球部は当初、鳴かず飛ばずだった。だが、松山商業の名投手だった近藤兵太郎が台湾に来て、嘉義商工学校の簿記担当となり、コーチを引き受けたことでがぜん力をつけていった。11校が参加する予選を勝ち抜いた嘉義農林は、海を渡って本大会に臨み、破竹の勢いで勝ち進んだ。 日本人はこの時に初めて、台湾生まれの日本人少年を見た。その上、三民族混成だったのだからさらに驚いたのである。中京商業との決勝戦でこそ敗れたものの、嘉義農林の大善戦は日本中に旋風を巻き起こした。評論家や文化人たちも絶賛した。 この快挙が台湾で、『KANO1931 海の向こうの甲子園』として映画化された。近藤兵太郎役を永瀬正敏が、南部で治水に貢献し、今も尊敬されている八田輿一を大沢たかおが演じた。 準優勝時のメンバーのうち、全試合に登板した呉明捷(ご・めいしょう)投手はその後、早稲田大学に進学して4番打者として活躍し、生涯を日本で過ごした。日本の敗戦により日本国籍は消滅したが、再取得はせず、中華民国の国籍を維持したままで。
川西玲子