着任当初はあいさつしても無視された…全国初の民間人校長、理想を模索し「ハートわしづかみ」
全国初の民間人校長として東京都立高島高校(板橋区)の校長を務め、11月に79歳で亡くなった内田睦夫(むつお)さんは、民間の感覚を取り入れた学校経営など都の教育界に確かな足跡を残した。関係者からは功績をたたえる声が絶えない。(浜田喜将) 【写真】戦場カメラマン渡部陽一さん、ゆっくりとした口調で「イラクでは第二の戦争」…中高生に「世界とつながる入り口」語る
最初は警戒され
日立茨城テクニカルサービス(現・UTハイテス)の取締役だった内田さんが、教育の世界に転じたのは、1997年に発覚したある事件がきっかけだ。当時、都教育委員会は生徒の理解度に応じてクラスを分けて授業するため、都立高に配置する教員を増やした。しかし、こうした授業を行わなかった都立高が相次いで発覚するなどし、200人近い処分者が出た。
閉鎖的な学校の体質や、場当たり的な学校経営が問題視され、都教委は民間人の登用にかじを切る。適任者を探してたどり着いたのが内田さんだった。アマチュア野球の選手として活躍後、日立の野球部監督を務め、社内の人望も厚かったことから白羽の矢が立った。
2001年、内田さんは55歳で高島高校に赴任した。だが、現場は「改革者」への警戒感をあらわにした。体育教師だった柘植(つげ)美之さん(70)は「内田さんが高島に来ると決まった時は『日立でたくさんの従業員のクビを切った人』とか、変なうわさが広がっていた」と苦笑いする。内田さんは後の取材に「あいさつをしても無視され、職員会議では誰も発言しない。校長が不登校になりそうだった」と、着任当初の苦労を振り返っている。
職員室に自分の机
校長室にはこもらず、自分の机を職員室に置いた。教員一人一人に声をかけ、理想の学校経営を一緒に模索していった。吹奏楽部の顧問だった鹿子木(かなこぎ)由紀夫さん(66)は「吹奏楽部の楽器不足を聞きつけて、すぐ解決に動いてくれた。ハートをわしづかみにされた」と懐かしむ。
「校長にできることは、現場の先生の熱意や工夫、技術をいかに引き出すか。それが回り回って生徒のためになる」。内田さんの方針は明確だった。