祖父とマンツーマンで工程をデータ化 町工場がアップデートした鋳造技術が東京スカイツリーにも
祖父と交わし続けた日報
東日本金属が創業以来研ぎ澄ましてきた砂型鋳造は、文字どおり砂で造形した型(鋳型)に溶かした金属(溶湯)を流し込み(鋳込み)、冷却して固めたのち、砂型を崩して鋳物を取り出し(解枠)、仕上げていきます。 身近なところでいえば製氷機のようなカラクリですが、砂型鋳造は氷のように勝手につくられるわけではありません。そこには職人仕事の英知が詰まっています。 鋳型となる砂のコンディション、溶湯を流し込む速度やその温度……。あらゆる工程が気温や湿度、型の種類によって変わってくる繊細を極めたものです。家業入りしたばかりの小林さんは、容三さんのマンツーマンで仕事を一つひとつ、覚えていきました。 容三さんは技術の習得にあたり、すべての工程の数値化を命じました。 「かつては(欠陥の一種である)ピンホールが入っているのが当たり前。職人の勘とは品質がさほど求められない時代だから許された、ただの当てずっぽうに過ぎないというのが祖父の言い分でした。これからはそういうわけにはいかないと肌で感じていたようです」 それは事業の拡大も視野に入れたものでした。従来、不得手としていた防音スタジオやレントゲン室などで使われる、大きく緻密さが求められるハンドルの開拓に乗り出したのです。 小林さんは日報をつけるようになりました。その日の作業内容、砂の配分量などのデータを仕事終わりにまとめ、容三さんに提出します。翌朝には赤ペンが入っていました。 「構築したデータは生産体制に反映させなければなりません。これが胃に穴が開くほどつらかった。誇り高き職人は20代の若造のいうことなど聞いてくれませんから。職人がはじめて歩み寄ってくれた日のことは、いまもくっきりと覚えています。脱力するほどうれしかった」 小林さんは修業のかたわら、明治生命館のプロジェクトにも駆り出され、がむしゃらな日々を過ごしていました。そのがんばりは頑固な職人の意識をも変えさせるのに十分でした。