祖父とマンツーマンで工程をデータ化 町工場がアップデートした鋳造技術が東京スカイツリーにも
歴史的建造物の依頼が続々
とっかかりは2001年に都立公園として開園した旧岩崎邸庭園でした。移転、改築するにあたり、窓のあおり止めの復元の依頼が来ました。一個からつくることのできる砂型鋳造という製法、そして仕上げまでを内製化した体制が認められ、白羽の矢が立ったのです。 それからほどなく、明治生命館の改修プロジェクトにも名を連ねます。昭和の建造物としてはじめて国の重要文化財に指定された丸の内のランドマークです。 背景には、謙一さんの修業先だった金物メーカーが倒産したことがありました。当時、そのメーカーはハイブランドストアを手がけていて、東日本金属は下請けとして現場に入っていました。明治生命館の仕事はその元請けとじかにやりとりするなかでオファーされたものでした。東日本金属は名門もエントリーしたコンペを勝ち抜きます。 受注したのは窓まわりの金具一切。その数、1千本にのぼりました。会社始まって以来のビッグプロジェクトです。東日本金属は家族総出でことにあたりました。 この成功はあらためて東日本金属の名を知らしめました。三菱1号館、東京国立博物表敬館、浅草寺……。評判が評判を呼んで、数々のプロジェクトに参画します。東京スカイツリーのエレベーターを飾る都鳥も手がけました。古き良き金物は東日本金属のひとつの顔になりました。
祖父母に導かれて家業に
「あなたが本当にやりたいことがあるなら応援する。そうじゃなければそろそろ家業入りを考えてもいいんじゃないか。おまえのひいじいちゃんが会社を興し、じぃじがいまのかたちをつくり、お父さんとおじさんがもり立ててきた。築き上げた信用、信頼をなくすのはもったいないと思わないかい」 小林さんは1階が作業場という昔ながらの環境で育ちました。いずれ継ぐものと思っていましたが、将来についてとくにいわれなかったのをいいことに高校を卒業すると心置きなく羽を伸ばします。仲間と一緒にピザ屋のバイトを始め、楽しく毎日を過ごしていた小林さんに声をかけたのは祖母でした。 継ぐ意味とはなんなのか。ぼんやりしていた思いがクリアになった瞬間だった――。祖母の言葉に目が開かれる思いだったといいます。 小林さんは2002年、父に頭を下げました。謙一さんは喜びを押し隠し、「一度は外に出たほうがいい」と受け入れ先の算段をはじめました。 そこに割って入ったのが祖父の容三さんでした。「後を継ぐつもりがあるなら鋳物をやってくれないか」 「鋳造から始まった工場ですが、そのころその部門の最若手は60代後半で、ほかは70代を超えていました。このままでは閉鎖されるのは時間の問題でした。『おれが手取り足取り教えて3年で一人前にしてやる』という祖父の申し出を受けることにしました。父も寝耳に水だったようで、驚いた顔をしていました」