知的障害のある両親から生まれた葛藤と、隠してきた過去 「もっと理解すれば良かった」後悔と共に感じる、支えてくれた恩人の大きさ #令和の子
東北地方在住の田山かなえさん(33)=仮名=は、知的障害がある両親のもとで育った。なぜ、うちの家には「できない」ことが多いのだろう。葛藤を抱き、両親への諦めや反発を抱きながら生きてきた。そんな自らを見つめ直すようになったきっかけは、高校生の時、父が病死したことだった。「もっと理解すればよかった」 大学を卒業し、働きながら子どもを育てる今、感じることは「できない」ながら、愛情を注いでくれていた両親と、支えてくれた恩人の存在の大きさだ。(共同通信=船木敬太)
支えてくれた「第2の母」
物心ついた後、幼い頃に覚えているのは、会話が乏しいわが家だった。知的障害がある両親はコミュニケーションが苦手。ただ、小さい頃の田山さんには「それが普通」だった。父は障害者向けの作業所で真面目に働き、病院の清掃などをしていた母はレパートリーが多くはないが料理をし、掃除や洗濯など家事もこなしていた。「決してヤングケアラーではなかった」と振り返る。 田山さんには「おばちゃん」と呼ぶ女性がいる。浜村良美さん(74)=仮名=だ。浜村さんはかつて保育園に勤務したことがあり、当時の知人の紹介で、保育園児だった田山さんと出会った。初対面で「口数が少なく、表情が乏しい子供」と感じたのを今でも覚えている。 浜村さんは「ほっとけない。この子を支えたい」と、個人的にサポートを始めた。母ができることは母に任せ、学校の面談の付き添いなども含めて「第2のお母さん」として手伝った。
抱いた葛藤、何カ所もあけたピアスの穴
田山さんは浜村さんの家に放課後は毎日のように訪れ、そこで宿題をしたり、友だちと遊んだりした。浜村さんは口数が少なかった田山さんに「伝えたいことは、はっきり言っていいんだよ」と繰り返し教えた。 浜村さんの夫や子どもも含めて家族ぐるみで接するうち、田山さんはどんどん明るくなり、次第に口数は増え、表情は豊かになっていったという。浜村さんは「性格がとても優しく、素直な子だった。そこがうまくいって、周囲とすぐになじんでくれた」と振り返る。 浜村さんはその後も、進学の相談に乗ったり、家庭教師役として知り合いの学生を紹介したりして、伴走者として人生を支え続けた。