独立リーグ・福島で奮闘する岩村明憲。「何苦楚(なにくそ)魂の継承こそ自分の使命」
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】第3章 福島レッドホープス監督・岩村明憲編 【写真】楽天時代の岩村のサヨナラタイムリー かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は独立リーグで奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第3章はNPB、MLBで活躍し、WBC日本代表としても活躍した現・福島レッドホープス監督、岩村明憲。輝かしい実績を持つスター選手だった岩村は、なぜ今福島で独立リーグ球団の監督をしているのか。その知られざる奮闘ぶりに迫った。(全4回の第4回/前回はコチラ) ■上甲イズムと「夢叶うまで挑戦」 福島レッドホープスの楢葉キャンプ――。 チームOBの畠山氏から伺ったように、練習は気迫溢れた密度の濃い内容で、岩村の指導からも「ひとつのミスも許さず、ひとつのプレーもおろそかにしない。そのために何事も全力を尽くす」という緊張感が伝わってきた。厳しくも温かい眼差しで見守る岩村の姿を見ていると、高校野球界の名将が思い浮かんだ。 宇和島東を11回、済美を6回、甲子園出場に導いた上甲正典監督。今は亡き上甲監督は、岩村にとっては生涯忘れることのできない「野球人としての原点」とも言える恩師だ。 2014年11月、岩村がメジャー再挑戦でも日本のNPBでもなく、独立リーグ、しかも福島で誕生したばかりの球団で挑戦しようと思ったきっかけは、亡くなる直前に上甲監督から「野球界のパイオニアになれ」と言われたことも大きく影響していた。 「夢叶うまで挑戦」が座右の銘の上甲監督は1977年、愛媛県宇和島市の田舎町にある宇和島東高校の監督に就任した。上甲監督の就任当時、愛媛の高校野球は松山商業一強の時代だった。そんな歴史の壁を破り、87年に夏の甲子園初出場。翌88年は春の選抜に初出場初優勝という偉業を達成した。当時、宇和島東の破壊力ある攻撃は「牛鬼打線」の異名で恐れられた(牛鬼は宇和島に伝わる鬼の頭に牛の胴体を持つ妖怪)。 上甲監督は93年から4年連続で、岩村を含む5人の選手を宇和島東からNPBに輩出。済美でも4人のNPB選手を輩出した。そんな教え子たちの中でも岩村は、ヤクルトで日本一に貢献しWBCにも2度出場、メジャーリーグでもワールドシリーズに出場し、日本球界を代表するスター選手に上り詰めた上甲監督の「最高傑作」、いわば出世頭だった。 福島に来て3年目の2017年4月、岩村はシーズン終了をもって選手としては現役引退することを発表した会見の席上、「上甲監督がいなければプロ野球選手にもなれていないと思います」と話した。 「高校時代の上甲正典監督から教えていただいた『打ったら走る』という、野球の基本中の基本をやり通せたというのはあります。今シーズンもまだまだ、打席に立って凡打しても、一塁への全力疾走は欠かさないようにしたいと思います」とも語り、引退試合までそれをまっとうした。そしてそれは今も岩村が、監督として福島レッドホープスの選手に伝えていることにも思える。 「もちろん昔のような形での厳しい指導は、認められない部分はあると思います。上甲監督のやり方をそのまま今に当てはめることはできないかもしれません。ただ、苦しい場面で歯を食いしばって乗り切る魂は、中西(太)さんから授かった言葉で自分の信条でもある『何苦楚(なにくそ)魂』にもつながる教えです。そうした教えを若い世代に継承していくことも、自分の使命のひとつだと思っています」