開高健と鮭釣りをした元イギリス首相ヒューム 財産を没収されても復活した一族の波乱万丈の歴史とは?
1974年12月、ひとりの老紳士が一代男爵(Life Baron)に叙せられた。新しい爵位は「ヒューム・オブ・ハーセル男爵(Baron Home of the Hirsel)」。1958年に一代に限って男爵位を与えられる制度が導入され、政財界の大物だけではなく、芸術や社会福祉などで功績のあった人々が、この資格で貴族院入りする機会が増えていった。 しかしこのヒューム卿は、これより11年前の1963年まで12年間にわたり貴族院に議席を持ち、活発な政治活動を続けてきた由緒ある世襲貴族(Hereditary Peer)だったのだ。いったい彼に何が起こったのだろうか。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。 ***
ヒューム一族の系譜
ヒューム一族の開祖はスコットランド東南部に所領を有したヒューム男爵(Lord Home)にさかのぼる。5代男爵アレクサンダー(1525~1575)はスコットランド東南部の国境を警護する役割を王から任じられ、度重なるイングランドからの侵攻に対抗した。しかしフランス王家に嫁いでいた女王メアリ(ステュアート)が帰国し、国内はカトリック(女王)派とプロテスタント派の貴族のあいだで内乱に陥り、ついにメアリは廃位され、プロテスタント側の勝利のうちに、まだ1歳のジェームズ6世が国王に即いた。 ヒューム男爵は当初、メアリ追い落としに加担していたが、実は熱心なカトリック教徒だった。その後突然、メアリ派に寝返り、所領は没収されてしまう。男爵が急死したため、わずか9歳であとを継いだ長男アレクサンダー(1566~1619)は、議会の許しを得て、爵位も土地財産もすべて回復した。さらに6代男爵はまだ15歳にすぎなかったのに議会に出席し、亡父と同じくスコットランド東部国境の警備にあたり、その実績によりやがてジェームズ6世に取り立てられていく。 特に6代男爵が才能を発揮したのが外交だった。弱小国スコットランドが生き残るには、南のイングランドはもとより、大陸のフランスとも仲良くしておかなければならない。フランス国王アンリ4世、イングランド女王エリザベス1世の許にも派遣されたヒュームは、両者からも絶大な信頼を寄せられるようになる。こうした功績からイングランド国王も兼ねるようになっていたジェームズから、彼はヒューム伯爵(Earl of Home)に叙せられた。