開高健と鮭釣りをした元イギリス首相ヒューム 財産を没収されても復活した一族の波乱万丈の歴史とは?
爵位を放棄して首相に就任
こののち有能なヒュームは、コモンウェルス担当相(1955年)、そして外務大臣(60年)に取り立てられ、その冷静沈着な外交姿勢が高く評価された。特にアメリカとソ連が対峙したキューバ危機(1962年)では、「ケネディを落ち着かせる役目を果たしていたマクミラン首相を落ち着かせる」のがヒュームの役割だったと言われるほどだった。こうした態度が、1963年10月にハロルド・マクミランが突然辞意を表明し、彼自身がエリザベス女王に後任として「ヒューム卿」を推挙させる大きな要因となっていたのかもしれない。 ところがヒュームの首相就任には大きな障害があった。彼が貴族院議員だったことである。第4章でも述べたとおり(154頁)、20世紀半ば以降、もはや貴族院から首相は輩出されない状況となっていた。しかし偶然にも同じ1963年に制定された「貴族法」により、世襲貴族は一代に限って爵位を放棄できるようになっていた。ヒュームはすぐに第14代伯爵位を放棄し、「サー・アレック・ダグラス=ヒューム」の名前でスコットランド中部の選挙区から補欠選挙で立候補し、見事に当選を果たすのである。こうして庶民院に所属する首相として政権を率いることになった。
晩年には開高健と鮭釣りに
ところが翌1964年の総選挙で保守党は惜敗し、労働党に政権を譲ることとなる。ヒュームは責任をとって辞意を表明し、65年から導入された保守党党首選挙で若きエドワード・ヒースが当選する。1970年からそのヒース政権で外相を務めたヒュームは、首相と二人三脚でEC(ヨーロッパ共同体)への加盟を実現していく。そして政権が労働党へと交代した直後に、冒頭にも記したとおり、ヒュームは1代男爵に叙せられて再び貴族院へと戻った。 かつて首相になったとき、労働党党首ハロルド・ウィルソンから「世襲貴族の首相など時代遅れ」と揶揄され、「私のことを14代伯爵と批判されるが、ウィルソンさん、あなただって14代目のウィルソン氏ではないですか」と切り返し、この百戦錬磨の反対党党首をぎゃふんと言わせている。名家の出身らしく権力にも淡々としていたヒュームは釣りも好み、晩年には日本のテレビ番組で作家の開高健を誘って、スコットランドの川で鮭釣りを楽しんだ。92歳で大往生を遂げると、15代伯爵位は長子デイヴィッドが受け継いだ。 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。 協力:新潮社 Book Bang編集部 Book Bang編集部 新潮社
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