開高健と鮭釣りをした元イギリス首相ヒューム 財産を没収されても復活した一族の波乱万丈の歴史とは?
スコットランドとイングランドの狭間で
しかし新生のヒューム伯爵家もまた時代の流れに翻弄されていく。伯爵位は初代の従弟の家に引き継がれ、第3代伯爵ジェームズ(1615~1666)は、国王チャールズ1世がスコットランドにイングランド国教会の教義や制度を押しつけるのに反発し、ついに反乱の中心人物となっていく。 それはそのまま清教徒(ピューリタン)革命とも関わるイングランド・スコットランド・アイルランド間の「三王国戦争」へと発展した。かつては憎い敵であったチャールズとはいえ王である。その彼がスコットランド側に何の相談もなくイングランドで処刑されるや、スコットランドとイングランド(共和政政府)のあいだで新たなる戦争が始まった。 もっとも、相手は国王軍を打ち破ったオリヴァ・クロムウェル率いる最強の軍隊である。ヒューム城は占拠され、伯爵の所領もすべて没収されてしまった(1650~51年)。その後、王政が復古し(1660年)、伯爵家の土地財産もすべて返された。 18世紀になりハノーヴァー王朝が始まると、スコットランドは再び闘争の舞台となる。名誉革命(1688~89年)で追い出されたジェームズ2世親子を慕う「ジャコバイト(ジェームズ派)」と呼ばれる一派が、たびたび反乱を起こすのである。第8代伯爵ウィリアム(1681頃~1761)は、1741年にスコットランド代表貴族としてウェストミンスタの貴族院に亡くなるまで議席を有したが、このジャコバイトの反乱鎮圧にもひと役買った。 こうした功績も認められ、1757年にはイベリア半島最南端にあるジブラルタル(1713年からイギリス領)の総督として赴任し、4年後に同地で没している。
政界入りした第14代
ヒューム伯爵家に政治的な「傑物」が登場するのは20世紀になってからのことだった。第14代ヒューム伯爵のアレクサンダー(1903~1995)である。 父の13代伯(1873~1951)は政治には興味がなく、もっぱら所領経営と近隣の人々のための慈善活動に精を出していた。おかげで父は10万エーカー以上にも及ぶ所領を巧みに経営し、スコットランドでも25番目の大地主になりおおせていた。しかしアレクサンダーは父の希望に反して政界入りする。 由緒ある貴族の出自とはいえ、簡単に議員になれたわけではない。彼が庶民院議員に立候補した1920年代後半のスコットランドは、労働党が強力な地盤を築いていた。保守党から出た彼は1929年の総選挙で落選し、31年にようやく当選を果たすこととなった。 1937年からヒュームはネヴィル・チェンバレン首相の議会側私設秘書官に就く。38年には首相に随行して、チェコスロバキアのズデーテン地方領有問題を話し合うための英仏独伊4カ国首脳によるミュンヘン会談にも出席している。 しかしチェンバレンの宥和政策は破綻し、その翌年に第二次世界大戦(1939~45年)が勃発する。大戦の前半期に体調を崩したヒュームは、1945年に外務政務次官に抜擢されたが、その直後の総選挙では保守党が惨敗し、彼自身も落選の憂き目を見る。戦後の1950年総選挙で復活したものの、その翌51年7月に父が亡くなり、伯爵位を継承して貴族院へと移籍した。