“心中事件”のかわら版は即販売禁止 心中がなぜ幕政批判に当たるのか?
「心中の流行」は大坂商人から
幕府の出版規制は、我々が想像するほど厳しいものではないが、心中を扱ったかわら版への弾圧は、強烈そのものだった。違法出版物に対して、幕府は「販売の中止」のみならず、「版木の焼却」まで命じることが普通だったため、心中を報じたかわら版は、刷り物はもちろん、その版木すらこの世から消し去ってしまったのである。 しかし、なぜ心中なる行為が流行するに至ったのだろうか。 そもそも、心中という言葉の原意は、文字通り「心の中を見せ合うこと」だった。特に、遊女と客の間で、互いに「他に好きな人がいないこと」を示す行為を指していたようである。これが、現在のように「情死」を意味する語となったのは、元禄年間(1688~1704年)以降のことだ。 当時の結婚は、現代のように恋愛の結果としてあるものではなかった。そのほとんどは縁者の紹介によるものであり、結婚当日までお互いに顔も知らないようなことすら、稀ではなかった。そのような状況において、遊郭における遊女と客の「恋愛」は、そこに金銭が介在するにせよ、社会的な「しがらみ」から解き放たれた純粋なものと認識されていたのである。 この心中に大きな注目が集まるきっかけとなったのが、近松門左衛門(1653~1724年)によって書かれた、かの『曾根崎心中』である。これは、実際に大坂で起きた、次のような事件を元に書かれたものだった。 1703(元禄16)年、大坂の曽根崎天神において、徳兵衛とお初が命を絶った。徳兵衛は25歳で、醤油を商っていた大店・平野屋の手代である。お初は堂島新地にあった天満屋の遊女で、当時21歳。徳兵衛は、お初にとって上客だった。初めは客と遊女でしかなかった二人だが、次第に惹かれ合い、彼らは本気で結婚を夢見始めたという。 ところが、現実は甘くない。徳兵衛は叔父である主人の用意した相手との結婚を勧められ、お初は天満屋にとって大切な上客から、結婚を迫られる。互いに、様々な「しがらみ」から、本当に惹かれた相手との結婚が困難になったのである。 絶望した二人は、遂にこの世を捨て、あの世で一緒になることを選択する。そして、命を絶ったのは、神聖な曾根崎天神において、だった。この衝撃的な事件を取材した近松は、少しの脚色を加えて、一級のラブストーリーにまとめ上げる。事件から、わずか1カ月後のことだった。 浄瑠璃として上演された『曾根崎心中』は、大坂人の心を、まさに鷲掴みにした。全ての「しがらみ」から解放され、純粋な恋愛感情だけに身を任せた二人の生き様に、誰もが夢中になったのである。 そして、当然のように、実際の心中が相次ぐ。この年だけでも、なんと46組92人が心中でこの世を去ったと伝えられている。そして、次々に起きた心中事件は、脚色されて歌舞伎や浄瑠璃として、多くの人々に伝えられていったのである。