“心中事件”のかわら版は即販売禁止 心中がなぜ幕政批判に当たるのか?
幕府による強烈な禁令
ここに掲載した画像は、『すけ六心中』の挿絵の一つである。歌舞伎や浄瑠璃として演じられたこの物語もまた、宝永年間(1704~1711年)に大坂で実際に起こった心中事件が元になったものだった。なお余談ながら、この「すけ六」は現在も「助六弁当」にその名を残すものである。 心中の流行は、主に上方のものだった。しかし、少しずつその熱は、江戸にも伝わっていく。実際の事件が創作物を生み、創作物が実際の事件を生む不気味さに、幕府も不安を隠せなくなったようだ。1722(享保7)年、遂に心中物の出版に関する禁令が出される。これによって、心中を取り扱ったかわら版も、厳しく規制されることとなった。 そして翌年、今度は心中そのものを禁止した。悪循環を、一気に断とうという腹だった。しかも、幕府の危機感が反映されて、この心中禁止令は相当に強烈なものとなっている。 具体的には、心中については次のように処置することが決定された。 1.心中した男女の遺体は、服を剥ぎ取って裸にして晒す。 2.心中した男女の遺体は、埋葬を許可せず、そのまま朽ち果てるのに任せる。 3.心中で男性が生き残った場合、その者を死罪に処する。 4.心中で女性が生き残った場合、その者は無罪とする。ただし、男女が主従関係の場合、女性は死罪とする。 5.心中で両方が生き残った場合、3日間晒した後、最下層の身分に落とす。 心中に「成功」し、共にあの世に向かったとしても、この世には最低限の尊厳すら奪われた、腐乱死体が残る。その有様を目にして、庶民は恐怖におののき、心中事件は確実に減少していった。しかし、逆に言うと、ここまでしない限りは心中を思い止まらせることはできなかったのである。 『曾根崎心中』に端を発した心中の流行は、この禁令によって終息した。しかし、冒頭に紹介した錦絵新聞に明らかなように、170年以上経った世においても、やはり心中は大きな話題となる事件であり続けていた。 それはやはり、心中というものが、様々な「しがらみ」からの脱出として機能するのみならず、「個人の自由」までも意識させるものだからだろう。庶民の中にそういった意識が芽生え、体制を相対化してしまうことを、幕府は何より恐れていた。幕府が心中に関連するかわら版すら駆逐した背景には、このような事情がある。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)