皇后さまの言葉に背中を押された外交官、そして大統領は決断した 移民社会は分裂、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(後編)
移住したのは中部コンスタンサ。高原気候で、農業地としては比較的めぐまれていた。 だが、そこでも約束の土地100タレアは与えられず、苦しい生活が続いた。1961年にトルヒジョ元帥が暗殺されると、独裁政権下で土地を接収された地主たちが日本人移住者の収穫前の作物を小刀で刈り取ってしまうなどの嫌がらせを始めた。西尾さんは10年ほどコンスタンサで暮らした後、妻と首都サントドミンゴに移動し、商店を開いて子どもたちを育てた。 移住者が日本政府相手の訴訟に動いていた1998年、日本大使館が動き、ドミニカ共和国政府が首都郊外ラ・ルイサの土地を、日本人移住者に譲渡すると決め、西尾さんら27家族はこの土地を受領した。 西尾さんは「日本政府を訴える、訴訟すると、それはどうも心情的にね。自分はしたくなかったから」と説明した。 土地のそばにあるオサマ川は、上流で大雨が降るたびに氾濫してラ・ルイサの土地に浸水した。その土地ではいまだに耕作はされていない。 ▽日本政府の落ち度
西尾さんも日本政府の対応については嶽釜さんたちと同じように批判した。 「移住は国策だった。それにもかかわらず日本政府の落ち度は、ドミニカ共和国と(移住者の法的身分の根拠となる)移住協定を結んでいなかったこと。それに移住者の前に派遣された国際事業団が事前調査をしっかりしていなかった」 西尾さんは、ラ・ルイサの土地を共同で管理する必要が生じたことから「友の会」を2002年に立ち上げた。 こうして、日本人社会は分裂した。 嶽釜さんは、分裂は団結を崩そうとした日本政府の責任だと糾弾する。 嶽釜さんたち45家族にドミニカ共和国政府からの補償金が支給されたが、耕作地に適さないと知りながら土地を受け取った西尾さんたちは補償から漏れた。西尾さんたちは共和国政府と交渉し、補償のためのやりとりを続けている。 ▽ドミニカでサラダが食べられるようになったのは ドミニカ共和国政府が45家族に対し、歴史的な補償に踏み切った背景には何があったのか。