皇后さまの言葉に背中を押された外交官、そして大統領は決断した 移民社会は分裂、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(後編)
ただ日本政府を代表する牧内氏が、補償金の額などについて交渉するわけにはいかなかった。補償額を交渉したのはドミニカ日系人協会会長の嶽釜徹さん(86)らだった。嶽釜さんは入植地の地価をそれぞれ調べ、政府の担当者とやりとりを重ねた。 ▽補償発表、「思い切った額」 日本人・日系人社会に補償が発表されたのは2021年7月、移住65周年の式典の席だった。式典はアビナデル大統領が大統領府で主催し、式典の場ではロベルト・アルバレス外相が補償について発表し、土地問題が未解決になっていたことへの謝罪の言葉があったという。 補償の対象となったのは45世帯。補償額はその年の10月、官報に掲載された。1家族あたりの補償は844万4、444.44ドミニカペソ(2024年9月のレートで約2千万円)。この額について牧内氏は「当初は100万か200万の象徴的な補償だろうと思っていたので本当に驚きだった」と感想を漏らした。
補償が決まり「みんな一息ついた」と嶽釜さんは話した。補償額は嶽釜さんが実際に算定した額より実はだいぶ少なかった。だが、日本政府からの「涙金」のような特別一時金に比べれば多く、「いかに苦しいときに助かったか」。 10歳の時に両親らと移住し、今はダホバンに住む向井猛さん(77)は嶽釜さんから頼まれ、現地の地価を計算して伝えるなどして政府との交渉を助けていた。補償のことは発表されるまで知らなかった。共和国政府の決断について「思い切ったことしたな、というのが最初の印象」と話す。補償を認められたことで「ほっとしましたよ」と心境を語った。 ▽訴訟派と非訴訟派に分裂 この歴史的な補償から漏れた人たちがいる。日本人社会が訴訟派と非訴訟派に分かれ、非訴訟派でつくったのが「日・ド友の会」(通称:友の会)だ。代表の西尾孝志さん(82)は1956年10月、第2陣の移住者としてドミニカ共和国の地を踏んだ。当時14歳だった。