「道長vs三条天皇」徐々に生じた“2人の大きな溝”。「一帝二后」を自ら主導した三条天皇の策略
まずは、何としてでも関白に就任してもらいたいと、道長は三条天皇から何度となくアプローチを受けることになる。何も道長を重用したかったわけではない。自分の側に取り込むことで、政治の主導権を握ろうとしたのであろう。 1011(寛弘8)年8月23日、三条天皇から「汝に関白詔を下すこととしよう」と伝えられると、道長は次のように応じたという。 「これまでも同様の仰せがありましたが、難しいということを申してきました」
関白になれば、公卿たちが議論する陣定には出られなくなってしまう。道長は「内覧」の地位のほうを好んだ。内覧とは関白に準じる地位で、奏上された文書に目を通すことができ、陣定にも出席できる。 実質的に関白のような権力を持っていた道長は、あえて関白につくメリットはなく、三条天皇もそれを承知で、少しでも自分のコントロール下に置こうとしたのだろう。 三条天皇の再三の説得をしのいだ道長。やむなく諦めた三条天皇から道長に、内覧宣旨が下されることとなった。
三条天皇とのファーストラウンドを制したかに見えた道長だったが、戦いはここからだった。 三条天皇は1012(長和元)年2月14日に道長の次女・妍子を中宮としたが、3月に入ると、長年連れ添った妻・娍子も皇后としたのである。 ■「一帝二后」を自ら主導した三条天皇 かつて道長は、一条天皇には定子という中宮がいたにもかかわらず、娘の彰子を中宮とさせて「一帝二后」を実現させた。三条天皇はその逆で、道長の娘を中宮としたあとに、娍子を皇后とすることで、自分から「一帝二后」の状態に持っていったのである。
三条天皇からすれば、一条天皇の4歳年上の従兄弟でありながら、長く皇太子に甘んじていたがゆえに、うっぷんもたまっていたのだろう。即位時には幼帝で、周囲の言うことを聞くしかなかった一条天皇とは、生い立ちがまるで違った。36歳でようやく自分の番がきた三条天皇の意気込みが、道長の反発をも恐れぬ言動につながったようだ。 「土葬にしてほしい」という一条天皇の大切な願いは忘れてしまった道長だったが、三条天皇と対立するたびに、やりやすかった一条天皇の治世が自然と思い出されたのではないだろうか。