「道長vs三条天皇」徐々に生じた“2人の大きな溝”。「一帝二后」を自ら主導した三条天皇の策略
とはいえ、道長の栄華はもともと、一条天皇がわずか7歳で即位して父の兼家が摂政を務めたことに端を発している。一条天皇とはともに過ごした年月も長い。崩御の卦が出ていることを知ったときに流した道長の涙に、偽りはないだろう。 だが、道長はいかなるときにも、頭の切り替えが早かった。一条天皇の死が近いと知って悲しみはしたものの、その目線は、譲位後への新体制へと向けられていたのである。 ■火葬後に思い出した一条天皇の遺志
早々と次を見据えていた道長だけあって、いざ一条天皇が崩御したら、もはや振り返ることはなかった。伝えられていた一条天皇の大切な遺志さえも、すっかり忘れてしまっていたという。 一条天皇の葬送は寛弘8(1011)年7月8日に執り行われた。「遺体を火葬して弔うこと」を「荼毘に付す」というが、北山で荼毘に付されると、一条天皇の遺骨は東山の円成寺に仮安置される。 次なる展開に意識がいっている道長は「心ここにあらず」だったと思われる。9日の早朝に道長からこんな言葉を言われたと、藤原行成は『権記』(7月20日付)に書いている。
「土葬にして、また法皇の御陵の側に置き奉るよう、故院が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである」 一条天皇は生前に、円融院法皇御陵のそばに土葬するように言っていた。亡き定子がやはり生前に土葬を希望して、鳥辺野に葬られたこともあったのだろう。だが、そんな大事なことを、道長は何日間か、すっかり忘れていたのだという。 火葬にすべきところを土葬にしたならばまだしも、逆はもう取り返しがつかない。すでに火葬にしてしまっているのに、どうするんだ……と行成も思ったに違いない。
しかし、道長は「今さらいっても仕方がない」と持ち前の切り替えの早さを発揮。この話を終わらせているのだから、ヒドい話である。 ■三条天皇が道長を関白にしたがったワケ 「いかに最期を迎えるか」という大事な本人の希望さえ忘れてしまうくらい、道長の頭を占めていたのは、新たに即した三条天皇との関係づくりだったに違いない。 だが、どれだけ備えていても、いざ三条天皇の治世が始まると、想像以上にウマが合わなかったようだ。