喜ばしいがどこかひっかかる日本被団協のノーベル賞受賞、彼らの訴えの「芯」をノーベル委員会は見落としていないか
■ 核「使用」のタブーではなくその「存在」こそがタブー もう一つ、モヤる点がある。それは、授賞理由の中で何度か使われた「核のタブー」という言葉だ。 日本被団協の活動によって「核兵器使用は道徳的に許されないと烙印を押す力強い国際的な規範が醸成された。この規範は『核のタブー』として知られるようになった」「日本被団協と被爆者の代表らによる並外れた努力は、核のタブーの確立に大きく貢献してきた。それゆえ、今日、核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされていることは憂慮すべき」、そんな説明だった。 「核使用がタブーなのではなく、核保有自体がタブーだとわたしたちは訴えてきた」。日本被団協代表委員の一人で、13歳の時に長崎で被爆した田中熙巳さん(92)はそう言った。「核兵器は存在してはならないのです」 前述の「基本要求」にはこう記されている。「被爆者は『安全保障』のためであれ、戦争『抑止』の名目であれ、核兵器を認めることはできません」。「基本要求」の英訳版では「完全禁止」(total ban)や「廃絶」(abolish)という表現が使われているが、ノーベル平和賞の授賞理由には、これらは見当たらず、核軍縮(nuclear disarmament)や軍備管理(arms control)といった言葉が使われている。日本被団協の訴えは、ノーベル委員会に的確に理解されているのだろうか。ノーベル委員会のあるノルウェーがアメリカの核の傘の下にある国だと考えると、やむを得ないことかもしれないが。 日本被団協で30年以上被爆者を支えてきた事務室長の工藤雅子さん(62)は言う。「継承、継承、というけれど、被爆体験だけでなく、被爆者の思いを継承してほしい」。 後をいくわたしたちは、いまだに解決していない課題をこそ継承し、何としても解決しなければならない。せめて、今回のノーベル平和賞受賞がそういう気づきにつながれば、と願う。
宮崎 園子