喜ばしいがどこかひっかかる日本被団協のノーベル賞受賞、彼らの訴えの「芯」をノーベル委員会は見落としていないか
(宮崎園子:広島在住フリーランス記者) とても喜ばしいことなのに、広島で暮らしている身であるのに、原爆被害者の取材をずっと続けてきたのに、どうしてだろうか。お祝いムードに乗り切れない自分がいる。もっと早くだったらよかったのに、というのがまずあるのだが、それだけでないような気がする。 【写真】地下核実験に抗議し原爆慰霊碑の前で座り込みをする森滝市郎・広島大学名誉教授ら被爆者と被爆2世 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、2024年のノーベル平和賞を受賞した。1945年8月、広島と長崎で米軍による核兵器実戦使用の被害者となり、その後を生き抜いてきた「生存者たちによる草の根運動」。ノーベル委員会の若き委員長が読み上げた授賞理由は、長年の活動に対する敬意が随所ににじんだ内容だった。 ■ 訴えるだけでなく、闘ってきた人たち 日本被団協の結成は1956年。原爆被害を受けてから、GHQ(連合国軍総司令部)によるプレスコードによって沈黙を強いられた時期も含めて11年の月日を経て立ち上がり、「原爆許すまじ」「三度(みたび)許すまじ」と訴えてきた人たちの足跡について、「核兵器の使用がもたらす人道上の破滅的な結果について認識を高めるため、たゆまぬ努力を続けてきた」と評価されたことについては、大変喜ばしいことだと思う。 一方で、授賞理由の中において、日本被団協の活動の重要部分には言及がなかった。それが、とても残念でならない。彼らが訴えてきたのは、核兵器廃絶だけではない。日本被団協のメンバーは、「証言活動に取り組んできた人たち」であるというだけではないのだ。 日本被団協は、「ふたたび被爆者をつくらないために」として、今からちょうど40年前の1984年に、「原爆被害者の基本要求」をまとめている。この時点ですでに原爆投下から40年が経とうとしているころ。「被爆者はもう、黙ってはいられません」と記したその内容は、「核戦争起こすな、核兵器なくせ」、そして「原爆被害者援護法の即時制定」の二本柱で構成されている。 つまり彼らは、「被爆体験の語り手」なだけではないのだ。国家補償に基づく被爆者援護、要は、核戦争の被害に対してきちんと責任を認め、その上で、原爆死没者に対する補償も含めた援護法を制定せよ、と米国政府や日本政府を突き上げてきたのだ。 そして、これら二本柱の要求はいずれも、それからさらに40年が過ぎ、被爆80年を目前にした今に至って、実現していない。