堀米雄斗(スケートボード)、パリ五輪の大逆転劇を明かす──「唯一無二の存在になるためのスタイルを作って、歴史に残るような存在になりたい」
パリ五輪のスケートボード男子ストリートで、連覇を達成した堀米雄斗がGQ HYPEに登場。25歳の王者は大逆転劇を振り返りつつ、「キャリアの頂点に向かう」とこれからの抱負を語った。 【写真を見る】夢の島のスケボーパークで滑りを披露!
地獄の3年間から生まれた超大技
パリ五輪を振り返ってもらうと、堀米雄斗の顔を暗いものが覆った。長いまつげを時折り瞬かせながら、伏目がちに、「地獄のような3年間」を語りはじめた。 東京五輪で金メダルを獲得した堀米雄斗だが、今回のパリ五輪は予選シリーズから、本大会の決勝まで苦戦が続いた。そもそもパリ五輪への出場そのものがかなり難しかったことはあまり知られていない。 2024年6月にハンガリー・ブタペストで開催されたオリンピック予選シリーズのストリート最終戦を前に、オリンピックランキングは11位、日本勢では5位。パリ五輪に参加できるのは1カ国最大3名で、仮に最終戦で堀米が優勝しても、他の選手の成績次第では五輪出場への道が閉ざされるという絶体絶命のピンチだった。予選シリーズは最後のブダペスト大会まで1回も優勝できず、パリへの切符は絶望的と思われていたのだ。 ようやく勝ち抜いたパリ五輪本番でも、金メダルはおろかメダル獲得すら難しいという土俵際まで追い込まれた。スケートボード男子ストリートの決勝、最後のトリックに挑む堀米の順位は7位。泣いても笑っても、チャンスはあと1回しか残されていない。 堀米は勝負に出た。ブタペストでもパリでも、この土壇場で決めたのはノーリーバックサイド270ブラントスライド。世界でも堀米だけしか成功していない超高難度の大技であり、パリでは金メダルをだけを狙ってこの大技にかけた。
実は、この堀米オリジナルのトリックは、東京五輪の後の「地獄のような3年間」の苦闘の末に生まれたものだった。 「東京五輪が終わってから急激な変化があって、それについて行くことができませんでした。スケートボードって大会だけじゃないカルチャーがあって、だから好きになったわけですが、五輪の後、スケートボーダーとしてこれからどう生きていきたいのかという葛藤が生まれました。そうすると、大会でも結果が出なくなってしまって……」 この苦境を、仲間たちの力を借りながら堀米は乗り越えた。コーチからのアドバイスがあり、一緒にパークで滑る友人がいて、東京を舞台に仲間とともに満足できるビデオパートを制作するなどして、スケートボードに向かうモチベーションを取り戻した。 気持ちは前向きになったものの、一度狂った歯車は簡単に戻らない。競技となると話は別、結果は伴わなかった。 「オリンピックの予選シリーズでなかなかうまくいかなくて、なにかしら変えないといけないことには気づいていました。結果が出ない時期に、考え抜いて出たアイデアがあのトリックで、本当に最後の最後に行き着いたという感じでした」 こうして生まれたノーリーバックサイド270ブラントスライドというトリックで、堀米雄斗は見事にパリ五輪への出場を決め、オリンピック本番も制した。 「点差もわからなかったし、イヤフォンを着けていたけれど音楽は聴いていませんでした。これが最後だという吹っ切れた気持ちもあって、トリックだけに集中できました。ベストトリック最後のチャレンジは、点数も計算してません。金メダルだけを狙って勝負に出ました」 五輪連覇、逆転金メダルを決めた秘話を快活に明かしてくれた堀米に、この先のことを訊いた。自身のスケートボーダーとしてのキャリアに満足しているわけではなく、その頂点はまだまだ先にあるという。 「大会としては、SLS(Street League Skateboarding)のスーパークラウンはまだ取っていません。一番むずかしいのがスケーターオブ・ザ・イヤーで、これは大会で勝つことで手に入る賞ではなくて、生き方とかスケーターのスタイルを評価するものです。一度、惜しいところまで行ったけれど、ダメでした。唯一無二の存在になるためのスタイルを作って、歴史に残るような存在になりたいので、まだまだ先は長いです」 「これからキャリアでも最もいい時期になるはず」という堀米雄斗が、GQ HYPEの一問一答に答えた。