『光る君へ』雨乞いで力尽きた安倍晴明ゆかりの地・広沢池へ。京都のお盆といえば、8月16日に行われる「五山送り火」と灯籠流し
◆訪れる人もほとんどいない静かな墓所 一説では、晴明は死後、嵯峨に葬られたとされているので、このお墓は、その伝承とも矛盾しません。その後、年月とともに荒廃していましたが、1972年、現在の形に整えられたようです。 墓所の入口には「陰陽博士 安倍晴明公 嵯峨御墓所」との石碑が。お墓とはいえ、神道式に鳥居もあり、五芒星こと「晴明桔梗」も刻まれています。 こじんまりとした墓所ですが、春には河津桜が彩りを添えます。おそらく、晴明神社近くにある「一条戻橋」が河津桜の名所であることを意識したのでしょう。 晴明は、自分が操っていた式神(陰陽師が使役する鬼神)を一条戻橋の下に住まわせていた――そんな逸話もよく知られています。『光る君へ』では、晴明の従者、須麻流(すまる)が式神を想起させる役回りのようですが、須麻流は橋の下に住んでいるわけではなさそうです。 常に多くの人が訪れる晴明神社とは対照的に、こちらのお墓は閑静な住宅街のなかにあり、お参りに来る人もほとんど見かけません。あの有名な安倍晴明のお墓とは信じられないほど。おそらく、『陰陽師』ファンにもあまり知られていないのではないでしょうか。 渡月橋にも近く、多くの観光客が行き交うエリアではあるのですが、駅に向かう道から脇に入った場所なので、まったく目につかないのです。私も、犬との散歩の途中にたまたま見つけて、「なぜ、こんなところに?」と不思議に思っていました。調べてみると、やはり、あの晴明のお墓だったというわけです。 Google Mapにもしっかり載っているので、気になる方は、嵐山観光の途中に、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
◆晴明伝説の舞台となった遍照寺 嵯峨嵐山近辺にある、知る人ぞ知る名所をもうひとつ紹介しましょう。それが広沢池と遍照寺。紫式部にも、安倍晴明にも、ゆかりのある場所です。 大覚寺の南東に位置する広沢池は、以前、この連載でも紹介した大覚寺境内の大沢池と同様に、平安時代から月見の名所として知られていました。歌枕になるほど風光明媚な場所で、平安貴族たちは、ここで月見を楽しみ詩歌を詠んだのだそうです。 広沢池は別名・遍照寺池とも呼ばれ、もともとは遍照寺の庭池として造営されたとか(8世紀からあった灌漑用の池を拡張したとも伝わる)。広大な広沢池が庭池ということからも、遍照寺全体の規模が窺えるというもの。池の向こうにそびえる山も遍照寺山と呼ばれています。 遍照寺は、989年、宇多天皇の孫、寛朝僧正が、池のほとりの山荘を寺院にしたもので、数々のお堂が並ぶ壮大な寺院でした。その全盛期は紫式部が活躍した時代と重なり、寛朝僧正の祈祷によって円融天皇(一条天皇の父帝)の病を治すなど、歴代朝廷との関係も強かったようです。 また、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』は、遍照寺と安倍晴明にまつわる、こんな逸話を伝えています。 寛朝僧正に教えを乞うため、晴明が遍照寺を訪ねた折のこと。若い貴族や僧侶たちに「式神をお使いになるなら、人を殺せますか」と問われた晴明は、「虫などは殺すことができますが、生き返らせる方法を知りません。仏道の罪になるので、たやすくは殺せません……」などと答えました。しかし、僧侶たちは引き下がらず、「カエルで試してみてください」とけしかけます。そこで、晴明が草の葉を投げると、カエルはまっ平らにつぶれて死んでしまったのです。 『光る君へ』の晴明はこういう呪術は使いませんが、実際はどうだったのでしょう。以前は安倍晴明と聞くと、野村萬斎さんの顔が浮かんだのですが(最新版は山崎賢人さんですね)、最近はユースケさんが真っ先に頭に浮かびます。大河ドラマの影響力、おそるべし、です。
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