認知症の母がトイレから出てきて…にしおかすみこが見た、母がしょんぼりした理由
なんでイライラするの?
「なんで?」お望みの言葉を口にしたら、枯れ葉を踏むような濁音だ。 「パクソがさ、『なんだと? ボケが偉そうに! もういっぺん言ってみろボケ!』って。ママ、どんなにボケたって間違ってない! それくらいはわかる! あんまり頭にきたから、『何回だって言ってやる! 耳の穴かっぽじってよく聞け!』って言ってやったんだ」 「うん、いいじゃん。そうだよ。なんて言ってやったの?」 「それを! なんて言うかを! 忘れたんだよ! なんっにも出てこなかった! クソが、それ見たことかと『ボケボケボケボケ』永遠に言ってくる。だからイライラしてんのよ!!! くぅぅ」 悔しいね。腹が立つ。認知症の人に『ボケ』と、こんなに追い込む必要がどこにある? 母は痛いほど自分の症状を認識しているよ。 更に「あー! もう! こんなにボケたボケたって言われたら、本当にボケてしまいそうだよ! こういうのはストレスが影響するんだよ。ママがボケたらどうしてくれる!皆たちまち困るだろうが!」 自覚していなかった。……いや、しているときもある。どこか心の奥底ではわかっているけど、不安でその記憶を押し込めてしまうのだろうか。浅い解釈だろうか。 怒りが収まらない母は膝が痛いのかソフトな地団駄を踏み、その度にブッ、ブブッと屁を放ち、「悪いね!もう寝る!悪かったね!」と部屋を後にした。……臭いよぉ~。おい、ババア、私の部屋は掃き溜めでも肥溜めでもないぞ。 入れ替わりに姉が顔を覗かせる。……もう部屋に鍵をつけたいよ。 惰性で見やると、何やら切羽詰まったような、訴えるような眼差しだ。 「どうした?トイレ?」と聞くと、無言でツツツと私の枕元までやって来て、耳打ちする。「こもりうた、しってるの。ママに うたってあげれる」
ああ…
ああ、励ましてあげたいのか。 出た、十八番の蛍の光を歌いたいのね。姉なりに空気を読んでのことだ。ただ母は荒れ、疲れている。 「明日にしようか」と言ったら、 途端にムスッとし顎を突き出し肩を丸め、両手をダランと下ろし、重力に全てを持っていかれたような姿勢で、「おねえちゃんには きょうしかないの」と吐息のような声を出し、痛くもない心臓に手をやる。急病にもほどがある。 「……じゃあ、お姉ちゃんも自分のベッドに入ってから、そ~っと歌ってみな。もう遅いし、ママ寝てるかもしれないよ。1番だけにしときなね」 コクコクコクと首を小刻みに縦に振る。 小さな両目をこれでもかと見開き、弾けるような笑顔で「そういうとおもったの」とスタスタ戻って行く。去り際にクルっと振り返り、オッケーという手にしたかったのか、ピースを作りたかったのか、オリジナルなのか、指3本の輪っかでキツネになっている。爪先が可愛く「コン」と鳴いた気がした。