【プロ1年目物語】「最も地味なドライチ」から新人20勝、涙の敬遠、流行語大賞も…“雑草魂”上原浩治
オールスターでイチローと対決
オールスターでもセ投手部門のファン投票1位で選出されると、第1戦の先発マウンドへ。全セ上原と全パ松坂の新人先発対決は日本中の注目を集めた。初回、松井稼頭央(西武)、小坂誠(ロッテ)と二者連続三振を取った上原は打席にオリックスの背番号51を迎える。5年連続首位打者のイチローとの対決に、全セの捕手を務める古田敦也から、「松坂より目立つために三球三振を狙うぞ」と声を掛けられた。当時の様子を上原は自著でこう振り返る。 「2ボール2ストライク。古田さんの言う三球三振はかなわなかったが、三者三振が狙えるシチュエーションにまで持ってくることができた。5球目、古田さんのサインは、内角へのストレートだった。僕は、思わず首を振った。当てるのが怖い、と思ったのだ。そして投じた、5球目のフォークは、あっという間にセンターバックスクリーンへと飛んでいった」(OVER 結果と向き合う勇気/上原浩治/ワニブックス) イチローのその卓越した技術と完璧な当たりにマウンド上で上原は思わず笑みを浮かべたが、3イニングを投げてこの1失点のみ。オールスターの新人賞に輝き、パ・リーグの選手にサインや記念撮影を頼む初々しいルーキーの姿がそこにあった。背番号19は瞬く間にスターダムの階段を駆け上がっていく。雑誌「小学五年生」8月号、「きみはどっち派!? ライバル物語」特集で、鈴木あみvs宇多田ヒカル、中田英寿vs小野伸二と並び、松坂大輔vs上原浩治が取り上げられ、「小学六年生」10月号では、高橋由伸とともに「ヤングジャイアンツ」カラー特集記事が組まれた。TBSテレビ「情熱大陸」でも「黄金ルーキー・上原浩治」が放送された。当時の巨人戦は毎晩地上波テレビ中継されており、若きスターの由伸や上原は子どもたちの身近なヒーローでもあったのだ。巨人戦のシーズン平均視聴率が20%を超えたのは、この1999年が最後である。
後半戦も勝ち続け20勝到達
後半戦もその勢いが衰えることはなく、5月30日の阪神戦から始まった連勝は、9月21日の阪神戦まで続き、新人記録の15連勝に伸ばす。初めて体験する長丁場のペナントレースで、心身ともに疲労は当然あった。口のまわりに発疹ができ、切れ痔にも悩まされる。それを周囲に隠してマウンドに上がり続けた。10月5日ヤクルト戦(神宮球場)では、“涙のペタジーニ敬遠事件”が物議を醸す。チームメイトの松井秀喜と僅差の本塁打王争いをしていたロベルト・ペタジーニに対して、7回裏に巨人ベンチは敬遠を指示。その直前の6回表に1本差で追う松井が勝負を避けられ四球で歩かされていたこともあり、これもシーズン終盤のよくある四球合戦の風景……と思いきや、マウンド上の上原は外角に大きく外す一球を投じた直後にマウンドを蹴り上げ、悔し涙を流したのだ。「週刊ベースボール」で、スポーツライターの青島健太から「あれは最初から、歩かせるというような指示があったんですか」と質問され、上原はその裏側を明かしている。 「1、2打席目も敬遠しろって言われていたんです。それを僕がいやだって言って、勝負しに行ったんです。自分のわがままを聞いてもらったんですけど、7回のあの場面は、その前に松井さんが2打席敬遠されていましたから。(中略)涙については、自然に出てきたんですよ。泣こうと思って泣いたわけじゃないんです。ただ、何かこみ上げてきてね」(週刊ベースボール1999年12月20日号) 「勝負をしたかった」と言い切った上原は、9回に2点を失うも2失点の完投勝利を挙げ、新人としては1980年の木田勇以来、19年ぶりの20勝に到達した。地味なドラ1と揶揄された男が、序盤は最下位に沈んだ長嶋巨人を2位に押し上げる救世主となったのだ。最終的に20勝4敗、防御率2.09、179奪三振という驚異的な成績で、最多勝、防御率、最多奪三振、最高勝率、新人王、そして沢村賞とあらゆるタイトルを独占してみせた。契約更改では5300万円増の推定6600万円でサイン。移動中の荷物を紙袋に入れて周囲から注意され、仕方がなくグッチのバッグを買った24歳が、ファッション誌「メンズクラブ」の表紙を飾った。さらに、開幕前の公約通りに“雑草魂”で流行語大賞を受賞。表彰式で“リベンジ”の松坂大輔、“ブッチホン”の小渕恵三首相と肩を並べて笑ってみせるのだ。 振り返れば5年前、上原は近所のおっちゃん達と、草野球帰りにユニフォーム姿のまま吉野家で牛丼をかきこんだ。「今に見てろよ……」と逆襲を誓った19歳のあの日々が、“雑草魂”の原点でもある。上原の代名詞の「背番号19」は、そんな浪人生活を送った19歳の気持ちを忘れないために選んだ番号だという。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール