【プロ1年目物語】「最も地味なドライチ」から新人20勝、涙の敬遠、流行語大賞も…“雑草魂”上原浩治
メジャーを視野も巨人へ
世界の舞台でも大活躍した上原には、メジャー各球団のスカウトも注目する。日米争奪戦となり一時はエンゼルス入りが決定的と見られていた。当時の心境を上原はプロ入り後に、「週刊文春」の人気コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」でこう振り返っている。 「八、九割、向こうでした。四年生の夏休みには極秘でアメリカに行って、どこに住もうか家を見たりしてたから。エンゼルスの長谷川さんにもいろいろ案内してもらって、球場のマウンドに立たせてもらいました」(週刊文春1999年11月11日号) だが、スカウトから「100%の自信がなければ来るな」と言われ、土壇場で国内の巨人を逆指名するのだ。桑田真澄を尊敬していたが、少年時代は阪神ファン。それでも日本のメジャー球団は巨人だと自ら決断した。上原を巡り、就任したばかりの原辰徳野手総合コーチが「日本で2、3年やって栄冠を勝ち取ってから(メジャーに)行ってもいいじゃないか」とコメントしたことがスポーツ各紙で大きく報じられる騒ぎもあった。90年代はまだ多くの選手が巨人や長嶋茂雄監督への憧れを口にしたが、上原はドラフト10日後の「週刊ポスト」のインタビューで、「僕らの世代では、長嶋監督だからこうするとか、偶像視したりすることはないんです。(中略)特に巨人が好きだったということでもないんですよ」とあくまで逆指名の理由は寮や施設の環境面を重視してのことだと語った。 入寮時に今年の目標を聞かれると、上原は「何とか活躍して“雑草魂”で流行語大賞を狙う」と答えるも、同日入寮の松坂フィーバーと比較され、あまりに影が薄いドラ1と揶揄するメディアもあった。迎えたプロ1年目の1999年春季キャンプは二軍スタート。記者とは距離を取りリップサービスもしない新人のマスコミ受けは決して良いものではなく、他球団の偵察スコアラーからはスタミナ不足や、ワインドアップの際に手首の角度で球種が読まれてしまうと酷評が相次いだ。なお、二岡も自主トレで右ふくらはぎを痛めて二軍からという新人コンビだったが、その印象と低評価は開幕後に覆ることになる。 99年開幕3試合目の阪神戦(東京ドーム)にプロ初先発すると、6回2/3を投げて4安打4失点で敗戦投手に。プロ初勝利は自身2試合目、4月13日の広島戦で7回3安打6奪三振無失点の好投。チームの連敗を4で止めた強心臓ルーキーは、同じく6連敗後の5月7日のヤクルト戦(東京ドーム)、4連敗後の5月16日の横浜戦(東京ドーム)も勝ち、以降「連敗ストッパー」と呼ばれる勝負強さを見せる。ブルペンに入らず、登板と登板の間はランニングと遠投のみという独自の調整法もニュースとなり、毎週日曜日に登板することから“サンデー上原”が定着していく。勝利数と防御率でリーグトップを争う大活躍に、「ナイスピッチング二岡!」なんてご機嫌に名前を間違える長嶋監督であった。